愛しているのにわからない
愛しているからわからなくなる
わからないから愛している
・・・・・・

愛する
という行為の隣には
おおきな謎が転がっています

もちろん
人がことばを愛する あるいは
ことばに人が愛されるときにもまた
謎は生まれてくるのです

このささやかなスペースは
謎を解くための手がかりを
ひろいあつめる場ではありません

謎にじっとむきあうための
手がかりに出会える
そんな「相談室」をつくってゆきたいとおもいます

あなたのみつけた
ことばと人のあいだの謎を
どうか おしえてください

相談員 久谷雉
久谷雉(くたに きじ)

1984年、埼玉県深谷市に生まれる。
「詩の雑誌midnight press」の「詩の教室 高校生クラス」投稿 を経て、 2003年、第一詩集『昼も夜も』をミッドナイト・プレスから出版。 2004年、第九回中原中也賞受賞。

詩は独学で好き勝手に書いたらいいものですか。
久谷雉様
こんにちは。教えていただきたい事があるのですが、詩には、ソネットとか散文詩とか、形式がありますが、これから僕が詩を書いていくとしたら、しっかりと詩の形式を誰かから、一通り学んだほうがいいでしょうか?それとも、詩は独学で好き勝手に書いたらいいものなのでしょうか?独学では、いつか大きく、つまずきそうで怖いのですが(僕は教えてもらっても、つまずきますけど(痴))。基本的な質問ですいません。
森田拓也

お答えします。
勉強はしておくに越したことはありません。
現代詩、近代詩、和歌、俳句、漢詩……
詩歌や文学に分類されるものに限らず、
引き出しはたくさん持っておいたほうが後々役に立つことが
多いとおもいます。

ただし、学術的な研究の道にも進まれるような場合は別として、
あるていど「いいかげんに読む」方法を身につけておくことが、
詩の実作にむかう場合は、
強みになることもあるのではないかと僕は考えています。
作品が書かれた時代背景や作者の個人的な事情から
とりあえずはなれて、
自由に言葉をあそばせてみることのできるスペースを
「読む」という行為のなかに作っておくこと。
「いいかげんに読む」ということに定義をあたえてみるとしたら、
こんなところでしょうか。

背景事情を切ろうとしてみたところで、
中々切りはなしがたい作品というのもこの世には
たくさんありますが、
それはそれで「切りはなしがたさ」からやってくる圧力が、
ただ単に事情の「整理」にすぎない「読み」とはべつの場所へ
読み手をつれてゆくこともあるでしょう。
言葉というものには、時代的なものであれ個人的なものであれ、
様々な「力」がかかっているものですが、
それが何処からやってきたかを科学的に観察するということよりも、
(もちろん、決してないがしろにしてはならない事柄ではあるのですが)
「力」そのものの手触りを経験することに重きをおいた、
「読み」あるいは「勉強」をしたほうが、
実作をするひとには効き目があるかもしれません。

さて「先生」についたほうがいいのかどうかについてですが、
僕は基本的に実作については「独学」でやってきた人間なので、
正直お答えするのがむずかしい。
僕の生まれ育った土地は、今はどうか知らないけれど、
それほど芸術関係が盛んなところではなかったので
(中学生時代は文化部=体の弱い人が入るところなぞといった不文律が、
生徒のみならず教員のあいだでもまかりとおっているという、
恐ろしいところでした)
「独学」でやっていくしかなかったのです。
昼飯代だの参考書代だのといった口実を作って親からくすねた金を、
せっせと詩集や詩誌を買うのにつぎこんでいました。

ひとつだけ確実に言えることは、
「先生」としてすぐれている人は必ずしも、
「詩人」として派手な仕事をしている人とは限らない、
ということです。
あくまでも僕の個人的な意見ですが、
大きな仕事をしている「詩人」の弟子となった人たちが、
「先生」を超えることができた例というのは、
あまり無いんじゃないかとおもいます。
また「先生」につくことによって、
純粋に詩を書くということをはなれた
「しがらみ」のようなものに巻き込まれるということも
ありえなくはないです。
ただし「しがらみ」が、詩作のこやしにならないと、
決して断言することはできないのですが。

それでは、すぐれている「先生」を、
どのような基準を以て選べばいいのでしょうか。
それに答えられるだけの材料を、
いまの僕は持っていませんが、
ひょっとするとすぐれた詩を書く以上の努力が
場合によっては必要になってくるのかも知れません。
また「先生」をみつけられるかどうか自体が、
ひとつの才能なのかも知れません。