愛しているのにわからない
愛しているからわからなくなる
わからないから愛している
・・・・・・

愛する
という行為の隣には
おおきな謎が転がっています

もちろん
人がことばを愛する あるいは
ことばに人が愛されるときにもまた
謎は生まれてくるのです

このささやかなスペースは
謎を解くための手がかりを
ひろいあつめる場ではありません

謎にじっとむきあうための
手がかりに出会える
そんな「相談室」をつくってゆきたいとおもいます

あなたのみつけた
ことばと人のあいだの謎を
どうか おしえてください

相談員 久谷雉
久谷雉(くたに きじ)

1984年、埼玉県深谷市に生まれる。
「詩の雑誌midnight press」の「詩の教室 高校生クラス」投稿 を経て、 2003年、第一詩集『昼も夜も』をミッドナイト・プレスから出版。 2004年、第九回中原中也賞受賞。

現在進行形の恋愛を詩にすることはできないのですか?
なぜ、人は終わった恋に対してのみを言葉にしたくなってしまうのでしょうか。
私個人の問題かもしれませんが、「現在進行形」の恋や愛に対して詩や小説、短歌にすることはいつも出来なかったという実感があります。小説、など作品にしたとき、そのことはもうすでに「起こってしまったこと」であり、もう作品にした時点でそのことは過ぎ去ったものだという言われ方をしますね。
私はいま、現在進行形の激しい愛を、詩にしたい、そのことが自分のいまの恋を抱き締めることにつながる、と思いながら過去のことばかりを言語化しています。そのことが(終わった恋ばかり言語化することが)、現在の好きな人や自分自身を傷つけるだけのような気がしますが、詩を書くこと自体が、そもそも相手を対象化し、眼の前にいるたった一人の人間を真には愛せないこととなってしまうのでしょうか。
だらだらごめんなさい。

ペンネーム「時計」

恋愛についてわたしに聞かないでください(苦笑)……というわけにもいかないので、お答えします。現在進行中の恋愛について詩が書けない……とっても健康的でいいことなんじゃないかと思います。恋ができるときは、恋することに徹したほうがいいです。ペンを捨てて、相手の胸に飛び込むべきです(片想いの場合はいろいろ工作が必要かもしれませんが)。もしかしたら、もうお読みになってらっしゃるかも知れませんが、吉原幸子さんの「自戒」という詩に次のような二行があります。

生きるかはりに書いてはいけない
愛するかはりに書いてはいけない

この詩句は鋭い警告であると同時に、すぐれた恋愛詩論になっているのではないでしょうか。現在進行中の恋愛をあつかった詩があまりうまくゆかないのは、詩のことばそのものが「愛する」行為ではなくて、その「かはり」になってしまいがちだからではないか。

なにかをことばで表現するということは、それ自体が歪みをともなうものです。なぜなら表すものと表されるものの関係性としての「ことば」では、決してカバーしきれない領域が人間の心にはあるからです。心のはたらきの一つである「恋」もまた然りです。「恋」をそのままのかたちで、ことばに定着させるのは困難なことです。

それに加えて、自分の中に現在進行形で育ちつつあるものに対して批評的な意識を持つというのも、非常にハードルが高い。殊にみずからの恋愛感情に対して批評意識を持つには、あるていど時間が経つということが、必要になってくるのではないでしょうか。「時間」という距離なしに、じぶんの「恋」のかたちをみつめることができる人というのは、百年にひとりかふたりくらいしかいないのではないかと思います。