センチメンタル・ジャーニー  北村太郎

私はいろいろな街を知っている。
黴くさい街や、
日のひかりが二階だけにしか射さない街を知っている。
それでも時には、
来たことのない灰色の街で電車から降りることがある。
私はいらいらして写真館をさがす。
そして見つけだすと、
(それは殆ど街はずれにあるのだが)
そのまえに止り、
片足でぱたぱたと初めての土地を踏んでみるのだ。
ゴム靴がうつろに鳴り、
一度も会ったことのない少女の幻影が、
ガラス越しに街の象徴を私にあたえてくれる。
私はただの通行人。
しかし私はもっと素晴らしい街にいたらと踏んでみながら思うのだ。
東京、
ヴェネチア、
ニューヨーク、
靴を鳴らしてみたいのだ。
パンで苦しむ私の顔が月光のショウウィンドウをのぞきこむ。
パイプが手から舗道に落ちる。
パリの貧民窟。
そこの写真館でなぜ私の空の心が愛に充ちわたらないわけがあろうか。
私はただの通行人。
いまから四年前には、
黄色い皮膚の下に犬の欲望をかくして、
旅順の街を歩いていた。

私は歩くのが好きだ。
私はいろいろな街を知っている。
朝になると、
賭博狂やアルコール中毒の友だちと同じ眼つきで、
私のねじれた希望のように、
窓から雑閙の街へぶらさがっているゴム靴を見つめるのだ。

 

 1945年8月15日以後、詩について書かれた文章でまず目を惹くのは、1947年、北村太郎が「純粋詩」4月号に「詩壇時評」として発表した「孤独への誘い」の一章「空白はあったか」である。「僕はもし人間が作り出した言葉のうちで最も下らない言葉をあげろ、といわれたら、躊躇なく時間をあげたい」と北村は云う。そして、「持続性」と「時間」とは「全く別のもの」であり、「ここ十数年」(戦争時代)は「まったくブランク」であったなどと「ふざけた言葉」を「吐く」「先輩詩人」たちに「空白はあったか」と問いかけるこの論考は、2010年のいま読んでも、ぜんぜん古さを感じさせないアクチュアルな批評精神をもっている。ここであらためて思い出すのは、「戦後の『荒地詩集』が、北村太郎から始まっているのは偶然ではない。(中略)常住のうちにひろがる荒地的感性の世界は、彼によって最も繊細に捉えられ、最も見事に定着されているのである。」という鮎川信夫のことばである。この評言はたいへん興味深く、また、納得させられるところでもある。北村太郎の最初の詩集『北村太郎詩集』は1966年に刊行されたが、そのなかには「センチメンタル・ジャーニー」という詩が三つ収められている。1948年1月に発表された上の詩は僕の好きな詩のひとつである。「常住のうちにひろがる荒地的感性」が「センチメンタル」に「定着」されていることを一行一行確かめながら読むとき、「空白はあったか」と問う「詩壇時評」が「孤独への誘い」と題されたことにあらためて思いをいたすのである。(10.6.28 文責・岡田)