日本海流  大江満雄

ふるさとは山けはしくて山おほし
日本海流の黒潮ふくところ
わが母はミクロネシヤの女酋〔ぢよしう〕とよばれ
情につよくおろかなるをしらず
賢人〔さかしき〕を怨〔うら〕みてをはる。
眼窩〔がんくわ〕は岩となり
怒濤をうけてぬれ
歯をむいて
海辺の山に縁者たちとねむる。
削剥〔さくはく〕をかなしむもの
陽をあこがれて道にたほれしもの
財をもとめて他郷に死せるもの
おさなき子らもねむる
流竄〔りうざん〕の言葉に
われらはたへがたく
いくたびか墓碑前〔ぼひぜん〕にたち海をながめば
とほき阿蘇火山帯見えて
渺渺〔べうべう〕として溶岩の流れるをかんず。

 

 大江満雄(1906/明治39年—1991/平成3年)の詩を知ったのは、吉本隆明の「戦争中の現代詩」を読んだときだった。取り上げられていたのは「海鷲」という詩であった。「あゝ天皇〔かみ〕のために心狂ふものの大いなる/崇高〔たか〕き言葉の/天と海にみちて美〔かな〕し。」と歌われるその詩について、吉本氏は、「天皇を神にまつりあげることによって、自己の詩を納得させて自滅した青年の死を主題にしながら、『心狂ふもの』の客観的な暗さを描き出している」と云っている。その詩ではなく、1938年に発表された「日本海流」を取り上げることにしたのは、「母」への複雑な感情を底流させつつ、「流竄」する「人間」の運命に迫ろうとしていることばに惹かれるからである。後に「忘れることは出来ない/貧しい母と日本語//わたしの青春を理解することのできなかった母の日本語は/わたしを さからわし 憎ませたが なつかしい」という詩句が記される。石版印刷業を営むキリスト教徒を父として、土佐に生まれたこの詩人は、「曲り道をしながらの道」を遍歴したようだ。その真実を知るには、『大江満雄集 詩と評論』(全2巻・思想の科学社)を読むしかないだろう。(10.5.17 文責・岡田)