荒涼たる帰宅  高村光太郎

あんなに帰りたがつてゐた自分の内へ
智恵子は死んでかへつて来た。
十月の深夜のがらんどうなアトリエの
小さな隅の埃を払つてきれいに浄め、
私は智恵子をそつと置く。
この一個の動かない人体の前に
私はいつまでも立ちつくす。
人は屏風〔びやうぶ〕をさかさにする。
人は燭をともし香をたく。
人は智恵子に化粧する。
さうして事がひとりでに運ぶ。
夜が明けたり日がくれたりして
そこら中がにぎやかになり、
家の中は花にうづまり、
何処かの葬式のやうになり、
いつのまにか智恵子が居なくなる。
私は誰も居ない暗いアトリエにただ立つてゐる。
外は名月といふ月夜らしい。

 

 高村光太郎(1883/明治16年—1956/昭和31年)の『智恵子抄』は1941年8月に出版された。当時の光太郎を年譜で振り返ると、次のとおりである。1934年、父・光雲没。1938年、智恵子没。1940年、中央協力会議議員となる。1941年12月、太平洋戦争。1942年、日本文学報国会発足、詩部会会長となる。ところで、上の「荒涼たる帰宅」が書かれたのは1941年6月。『智恵子抄』がどのような経緯で一冊の詩集としてまとめられたのか、その詳細を知らないが、この詩が書かれた2ヵ月後に『智恵子抄』が出版されていること、これ以後、智恵子の詩が書かれることはなかったことなどを考えると、この頃に光太郎は大きな転機を迎えていたことが想像される。そして同年12月、「天皇あやふし。/ただこの一語が/私の一切を決定した。」。智恵子の死後3年を経て書かれたこの詩は『智恵子抄』のなかでも佳作に属すると思う。「誰も居ない暗いアトリエにただ立つてゐる」(と書いた)光太郎を去来したものはなんであったろう。(10.4.19 文責・岡田)