ゆきてかへらぬ  ——京都——  中原中也

僕は此の世の果てにゐた。陽は温暖に降り洒〔そそ〕ぎ、風は花々揺つてゐた。

 木橋の、埃〔ほこ〕りは終日、沈黙し、ポストは終日赫々〔あかあか〕と、風車を付けた乳母車、いつも街上に停つてゐた。

 棲〔す〕む人達は子供等は、街上に見えず、僕に一人の縁者〔みより〕なく、風信機〔かざみ〕の上の空の色、時々見るのが仕事であつた。

 さりとて退屈してもゐず、空気の中には蜜があり、物体ではないその蜜は、常住食すに適してゐた。

 煙草くらゐは喫つてもみたが、それとて匂ひを好んだばかり。おまけに僕としたことが、戸外でしか吹かさなかつた。

 さてわが親しき所有品〔もちもの〕は、タオル一本。枕は持つてゐたとはいへ、布団ときたらば影だになく、歯刷子〔はぶらし〕くらゐは持つてもゐたが、たつた一冊ある本は、中に何にも書いてはなく、時々手にとりその目方、たのしむだけのものだつた。

 女たちは、げに慕はしいのではあつたが、一度とて、会ひに行かうと思はなかつた。夢みるだけで沢山だつた。

 名状しがたい何物かゞ、たえず僕をば促進し、目的もない僕ながら、希望は胸に高鳴つてゐた。

 

   *    *    *

 林の中には、世にも不思議な公園があつて、無気味な程にもにこやかな、女や子供、男達散歩してゐて、僕に分らぬ言語を話し、僕に分らぬ感情を、表情してゐた。
 さてその空には銀色に、蜘蛛〔くも〕の巣が光り輝いてゐた。

 

 

 中原中也の『在りし日の歌』は、中也が死んだ翌年(1938年)4月に刊行された。中也が、その「後記」を書いたのは1937年9月23日。「私は今、此の詩集の原稿を纏〔まと〕め、友人小林秀雄に托し、東京十三年間の生活に別れて、郷里に引籠もるのである。別に新しい計画があるのでもないが、いよいよ詩生活に沈潜しようと思つてゐる。/扨〔さて〕、此の後どうなることか……それを思へば茫洋とする。/さらば東京! おゝわが青春!」
 このたび『在りし日の歌』を繰っていて、あらためて惹かれたのは「独身者」とか「ゆきてかへらぬ」などの京都詩篇であった。中也が山口から京都に出たのは1923年、16歳だった。秋、『ダダイスト新吉の詩』を読む。冬、長谷川泰子を知る。中也の「青春」が始まろうとしていた。「たつた一冊ある本は、中に何にも書いてはなく、時々手にとりその目方、たのしむだけのものだつた。」という孤独と矜持。この詩が書かれたのは1936年の秋。「ゆきてかへらぬ」は、「永訣の秋」という章に収められているが、この「永訣」ということばが何を含意していたのか深く考えずにはいられない。(10.3.1 文責・岡田)