蹄鉄屋の歌  小熊秀雄

 

泣くな、
驚ろくな、
わが馬よ。
私は蹄鉄屋。
私はお前の蹄〔ひづめ〕から
生々しい煙をたてる、
私の仕事は残酷だらうか、
若い馬よ。
少年よ、
私はお前の爪に
真赤にやけた鉄の靴をはかせよう。
そしてわたしは働き歌をうたひながら、
——辛抱しておくれ、
 すぐその鉄は冷えて 
 お前の足のものになるだらう、
 お前の爪の鎧になるだらう、
 お前はもうどんな茨の上でも
 石ころ路でも
 どんどんと駈け回れるだらうと——、
私はお前を慰めながら
トッテンカンと蹄鉄うち。
あゝ、わが馬よ、
友達よ、
私の歌をよつく耳傾けてきいてくれ。
私の歌はぞんざいだらう、
私の歌は甘くないだらう、
お前の苦痛に答へるために、
私の歌は
苦しみの歌だ。
焼けた蹄鉄を
お前の生きた爪に
当てがつた瞬間の煙のやうにも、
私の歌は
灰色に立ちあがる歌だ。
強くなつてくれよ、
私の友よ、
青年よ、
私の赤い燄〔ほのほ〕を
君の四つ足は受取れ、
そして君は、けはしい岩山を
その強い足をもつて砕いてのぼれ、
トッテンカンの蹄鉄うち、
うたれるもの、うつもの、
お前と私とは兄弟だ、
共に同じ現実の苦しみにある。

 

 1931年の満州事変を契機として、日本は国家総動員体制(戦争体制)に突入していくが、1935年——それは、天皇機関説が問題となった年であり、翌36年には2・26事件が起こるという時代であった——に出版された主な詩書・詩誌を見ると、次のとおりである。
3月 「日本浪漫派」創刊
5月 『小熊秀雄詩集』、「歴程」創刊
6月 小熊秀雄『飛ぶ橇』
10月 伊東静雄『わがひとに与ふる哀歌』
11月 津村信夫『愛する神の歌』
12月 『中野重治詩集』
 これは安東次男が「現代詩の展開」で書いていることだが、1936年の「コギト」詩時評で田中克己が、小熊秀雄の詩について、「僕を動かすのは実にこの饒舌なのだ。明治以来あるひは万葉以来かやうな種類の饒舌はあり得たか、これこそ日本詩の新声の一つだ」と云う一方で、伊東静雄について、「卑俗ロマンチックの色彩を帯び」「詩感が稀薄となつた」と云っているという。当時のあぶない時代相の一端が伝わってくるようだ。
 「プロレタリア詩」運動に対する弾圧が強まるなか、1931年に出版されるはずだった『中野重治詩集』は製本中に押収されて、1935年にあらためて出版されたが、それは検閲で部分削除された不完全本であった(1929年に「雨の降る品川駅」を書いた後、中野は詩をほとんど書いていない)。その「プロレタリア詩」運動が退潮していく末期に現われたのが『小熊秀雄詩集』である。その「序」の終わりの部分を引く。

 「或る者が『小熊は偉大な自然人的間抜け者である』といつた言葉が私をいちばん納得させた評言であつた、私は民衆の偉大な間抜けものの心理を体験したと思つてゐる、民衆はいま最大の狂噪と、底知れぬ沈鬱と現実の底なる盡きることのない哄笑をもつて、生活してゐる。一見愚鈍であり、神経の鈍摩を思はせる一九三五年代の民衆の意志を代辯したい。
 そしてこの一見間抜けな日本の憂愁時代に、いかに真理の透徹性と純潔性を貫かせたらよいか、私は今後共そのことに就いて民衆とともに悩むであらう。
 一九三五年五月」

 内なるイロニーを超えて、「喜びの歌」を歌おうとした詩人のことばを確かめつつ、詩集の冒頭に置かれた「蹄鉄屋の歌」をあらためて読んでみた。(09.11.30 文責・岡田)