2009年12月22日
紋 金子光晴
九曜。 
 うめ鉢。 
鷹の羽。 
 紋どころはせなかにとまり、 
袖に貼りつき、 
 襟すぢに縋る。 
溝菊をわたる 
                      蜆蝶〔しじみてふ〕。 
  ……ふるい血すぢはおちぶれて、 
                      むなしくほこる紋どころは、 
                      金具にさび、 
                      蒔絵〔まきえ〕に、剥〔はが〕れ、 
だが、いまその紋は、人人の肌にぬぐうても 
                      消えず、 
                      月や、さゞなみの 
                      風景にそへて、うかび出る。 
いほり。 
                      澤瀉〔おもだか〕。 
                       鶴の丸。 
                      紋どころはなほ、人のこころの 
                      根深い封建制のかげに 
                      おくふかく 
                      かゞやく。 
二
日本よ。人民たちは、紋どころにたよるながいならはしのために、虚栄ばかり、 
                      ふすま、唐紙のかげには、そねみと、愚痴ばかり、 
                      じくじくとふる雨、黴畳、……黄疸どもは、まなじりに小皺をよせ、 
                      家運のために、銭を貯へ、 
                      家系のために、婚儀をきそふ。 
紋どころの羽織、はかまのわがすがたのいかめしさに人人は、ふっとんでゆくうすぐも、生死につゞくかなしげな風土のなかで、 
                      「くにがら」をおもふ。 
紋どころのためのいつはりは、正義。 
                       狡さは、功績〔いさをし〕。 
                      紋どころのために死ぬことを、ほまれといふ。 
をののく水田、 
                      厠〔かはや〕のにほふ 
                      しっけた一家。 
虱〔しらみ〕に似た穀粒をひらふ 
                      貧乏。 
とっくり頭の餓鬼たち 
                      うられるあまっ子。 
疫病。 
                      ながれるはげ椀。 
霹靂〔へきれき〕のころげまはる草原の 
                      つちけいろをした顔、顔。 
  ——「怖るべき紋どころ」をみあげる 
                      さかさまな眼。 
井桁。 
                      三つ菱。 
                      むかひ藤。 
扇面にちらす紋どころは、 
                      ならぶ倉庫や、 
                      鉄扉。 
                      煙突の横はらにも染めぬかれ、 
                      或はながれる、 
                      銀翼にもある。 
                      紋どころをもはや、装飾〔かざり〕にすぎないといふものは、 
                      神のごとく人が無礙〔むげ〕で、 
                      正しいものは勝つといふ楽天家共である。 
紋どころを蔑むものの遺骨よ。 
                      おまへのひん曲った骨は、 
                      紋どころにあつまる縁者におくられ、 
                      紋どころを刻んだ墓石の下に、 
                      ねむらねばならぬ。 
 『こがね虫』(1923年)、そして『水の流浪』(1926年)を出した金子光晴(1885/明治28年—1975/昭和50年)は、その後、近代詩から現代詩への展開期をどうしていたのかといえば、1928年から1932年にかけて妻・三千代とともに東南アジア・ヨーロッパ旅行に出かけていた。これは、直接的には、森三千代を恋人の土方定一の手から取り返す旅であったと、松本亮氏は云う(「詩の雑誌midnight press」に連載された『素顔の金子光晴』から)。同時に、それは、モダニズム詩、プロレタリア詩、抒情詩のいずれにも属さない光晴が、耽美的な『こがね虫』から、1937年刊行の『鮫』へと展開する詩の方法を模索する旅でもあった。帰国したのは、5・15事件が起きた1932年6月。翌年、小林多喜二が虐殺される。この「旅」を通して異邦人の眼を獲得した詩人が後に語ったことばをいくつか引いてみる。「僕は、過去の僕の詩の書きかたと全くちがった方法で詩を書き出した」……「『鮫』は、禁制の書だったが、厚く偽装をこらしているので、ちょっとみては、検閲官にもわからなかった」……「なにしろ、国家は非常時だった。わかったら、目もあてられない。『燈台』は、天皇制批判であり」……「『紋』は、日本人の封建的性格の解剖であって、政府側からみれば、こんなものを書く僕は抹殺に価する人間だったのだ」…… 
                       『鮫』に収められた七篇はいずれも長い詩であるが、それまでには書かれたことがないもので、新しい詩人の登場を告知するものだった。上掲の「紋」では、封建的なるものを立ち上がらせるその措辞に唸らされる。(09.12.22 文責・岡田) 
         
                    
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