わがひとに与ふる哀歌  伊東静雄

 

太陽は美しく輝き
あるひは 太陽の美しく輝くことを希〔ねが〕ひ
手をかたくくみあはせ
しづかに私たちは歩いて行つた
かく誘ふものの何であらうとも
私たちの内〔うち〕の
誘はるる清らかさを私は信ずる
無縁のひとはたとへ
鳥々は恒〔つね〕に変らず鳴き
草木の囁〔ささや〕きは時をわかたずとするとも
いま私たちは聴く
私たちの意志の姿勢で
それらの無辺な広大の讃歌を
あゝ わがひと
輝くこの日光の中に忍びこんでゐる
音なき空虚を
歴然と見わくる目の発明の
何にならう
如〔し〕かない 人気〔ひとけ〕ない山に上〔のぼ〕り
切に希はれた太陽をして
殆〔ほとん〕ど死した湖の一面に遍照さするのに

 

 伊東静雄(1906/明治39年—1953/昭和28年)の『わがひとに与ふる哀歌』は1935年にコギト発行所より出版された。詩をいかに書くかと考えるとき、伊東静雄の詩ほどヒントを与えてくれるものはない。この、よく知られた、しかし謎を秘めた詩は、冒頭二行(「太陽は美しく輝き/あるひは 太陽の美しく輝くことを希ひ」から、読む者を瞬時に非在の時に運ぶ。以下、一行一行をいささかも弛緩することなく読み進めていくことを強いられるのであるが、それは詩作のなんたるかを思索する時といってよい。伊東静雄の詩を読む時、いつも思い出すのは「詩作の後」という詩の冒頭である。「最後の筆を投げ出すと/そのまゝ書きものの上に/体をふせる/動悸が山を下つて平地に踏み入る人の/足どりのやうに/平調を取り戻さうとして」……。
 保田與重郎が伊東静雄について語ったことばは真実だろう。「伊東は風景を歌はない。純粋として通るものゝ俗化される過程さへ知つてゐるごとく、心にくゝも風景の屈折度を測るまへに、屈折の精神にふれたその時その精神の現場を歌つた」。だが、この緊張を持続することは至難の業であったに違いない。後年、詩人は桑原武夫宛の書簡で「私は最近の自分の作を、初期のものの『解説』という風に考へてをります。しかし昔に帰ることは到底無理なやうに思はれます。あの頃のやうな、意識の暗黒部との必死な格闘は、すつかり炎を消して平明な思索に移らうとしてゐるやうに自分では考へてをります」と書いている。(09.11.16 文責・岡田)