朝の歌  中原中也

 

天井に 朱〔あか〕きいろいで
  戸の隙を 洩れ入る光、
鄙〔ひな〕びたる 軍楽の憶〔おも〕ひ
  手にてなす なにごともなし。

小鳥らの うたはきこえず
  空は今日 はなだ色らし、
倦〔う〕んじてし 人のこころを
  諫〔いさ〕めする なにものもなし。

樹脂の香に 朝は悩まし
  うしなひし さまざまのゆめ、
森並は 風に鳴るかな

ひろごりて たひらかの空、
  土手づたひ きえてゆくかな
うつくしき さまざまの夢。

 

 1931年の満州事変は、1945年の敗戦まで続く戦争の時代の幕を開けるものだった。そういうなか、1933年から39年頃までに出版された一群の詩集には、いまなお読まれるものが多くある。
 朔太郎の『氷島』が出版された1934年の暮れに、中原中也(1907/明治40年—1937/昭和12年)の『山羊の歌』が自費出版された。「朝の歌」については、中也は「我が詩観」のなかでこう書いている。
 「大正十五年五月、「朝の歌」を書く。七月頃小林(註・秀雄)に見せる。それが東京に来て詩を人に見せる最初。つまり「朝の歌」にてほゞ方針立つ。方針は立つたが、たつた十四行書くために、こんなに手数がかゝるのではとガッカリす。」
 中原中也を、「朝の詩」を知るのに、この記述だけで十分と思われる。その前年の11月(それは富永太郎が歿した月でもある)、同棲していた長谷川泰子が小林秀雄のもとに走ったことを頭に入れて読むこともできよう。だが、ここに中也の原景があるのだとあらためて思う。前にも書いたことであるが、中也の詩句はいったいどこからやってきたのかと考えさせられることが多い。それがまた魅力でもあるのだが。「朝の歌」でいえば、「鄙びたる 軍楽の憶ひ」という詩句には妙に惹かれるところがある。こういうときに思い出すのは、「幼時来、深く感じていたもの、——それを現わそうとして、あまりに散文的になるのを悲しんでいたものが、今日、歌となって実現する」(「河上(註・徹太郎)に呈する詩論」から)ということばである。繰り返し読む、それ以外に中原中也を読む道はない。(09.11.09 文責・岡田)