安西冬衛、北川冬彦…  

 

再び誕生日  安西冬衛

 

私は蝶をピンで壁に留めました。——もう動けない。幸福もこのやうに。

食卓にはリボンをつけた家畜が家畜の形を。

壜には水が壜の恰好〔かつかう〕を。

シュミズの中には彼女の美しさを。

 

剃刀  北川冬彦

 

西洋剃刀の刃は透明な飴棒である。舐めて見ると、瞬間、唇は稲妻のやうに剪り落された。これは素敵な清涼剤だ! これは素敵な清涼剤だ!

 

 安西冬衛(1898—1965)、北川冬彦(1900—1990)などによって、昭和3年(1928年)、満州・大連で創刊された「亜」は、短詩や新散文詩を試みる一拠点となり、のちの「詩と詩論」のエスプリ・ヌーヴォ運動へとつながる役割を果たした。
 安西冬衛といえば、「てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。」という「春」が、北川冬彦といえば、「軍港を内臓してゐる。」という「馬」が、それぞれ代表的な短詩として思い起こされるのだが、筆者にはそれらの短詩のよい読者ではないと自覚するところがある。一方で、その定番的イメージを離れて彼らの詩と向かいたいという気持ちもある。
 「地理に秀抜な機動」をもつ安西冬衛は、「欧羅巴から始まつた大陸の起伏が、(略)「大地の中の大地」と呼ばれてゐる亜細亜の大陸に移行し、断絶して黄海に没入する最后のドタン場」「その懸崖」を磁場として、独自の詩風をつくりあげていった。
 北川冬彦は、「新散文詩への道」で、「堕落は極まった。覚醒が叫ばれない筈はない。「短詩運動」の槍が投げられたのである。これは、民衆詩の冗漫と蕪雑とを攻撃して、詩の純化と緊密化を唱えた。」「今日の詩人は、もはや、断じて魂の記録者ではない。」と書いている。

 今回は、冬衛の「方法」観、冬彦の「覚醒」感、それぞれの特徴が現われているように思われる詩を取り上げた。(2009.08.31 文責・岡田)