宵夏  佐藤惣之助
しづかさよ、空しさよ
この首里の都の宵のいろを
誰に見せよう、眺めさせよう
まつ毛に明星のともし灯をつけて
青い檳榔樹の扇をもたし
唐の若い詩人にでも歩いてもらはう
ひろい王城の中門の通りを
水々しい蛍を裾にひいて
その夏服を百合の花のやうに
この空気に点じいだし
さて、空しい空しい
読めばすぐ消えてしまふやうな
五言絶句を書いて貰はう。



 大正期の詩人として、西条八十(1892 – 1968)と佐藤惣之助(1890 – 1942)のふたりが、なぜか気になる。八十は芸術派、惣之助は人道派とタイプは違うが、似ているところもある。ひとつは、詩のうまさ。もとより、その質は異なるし、そのうまさに余剰(余情にあらず)がないところがものたりないと云えるが。もうひとつは、後に歌謡曲の作詞家として名をなしたところ。例えば、村田英雄は、惣之助作詞の「人生劇場」(1938年。創唱者は楠木繁夫)、八十作詞の「王将」(1961年)を歌っている。「私は文学といひ、芸術といふものの価値をさまでに大きいものに考へてゐない詩人である。(略)私の所願は、身をもつて人生を深く、ひろく、経験し、識り味はふことにある」という八十のことばと、「わたしはきれい事に小さく完成したくない。放大な、未成品的な、異端でゐたい」という惣之助のことばを並べて、いろいろと考える。
 詩集でいえば、八十では『砂金』(1919/大正8年)に収められたいくつかの詩、惣之助では『琉球諸嶋風物詩集』(1922年/大正11年)に収められたいくつかの詩を時折読み返したくなる。惣之助の「宵夏」を取り上げたのは沖縄が好きだからでもある。読んでいると、かつて訪ねた「首里の都の宵のいろ」が思い出され、そして、「読めばすぐ消えてしまふやうな」詩が目の前を過ぎていくのである。『琉球諸嶋風物詩集』について、日夏耿之介は、「中山古謡の心酔の果が」「新境地を打開した」と評した後、「今後の精神段階如何により」「純詩の領域まで辿りつかないとは必ずしも云へぬ」と云っているのだが……。(文責・岡田)