夕ぐれの時はよい時  堀口大學
夕ぐれの時はよい時、
かぎりなくやさしいひと時。

それは季節にかかはらぬ、
冬なれば煖炉のかたはら、
夏なれば大樹の木かげ、
それはいつも神秘に満ち、
それはいつも人の心を誘ふ、
それは人の心が、
ときに、しばしば、
静寂を愛することを
知つてゐるもののやうに、
小声にささやき、小声にかたる……

夕ぐれの時はよい時、
かぎりなくやさしいひと時。

若さににほふ人々の為〔た〕めには、
それは愛撫に満ちたひと時、
それはやさしさに溢れたひと時、
それは希望でいつぱいなひと時、
また青春の夢とほく
失ひはてた人々の為めには、
それはやさしい思ひ出のひと時、
それは過ぎ去つた夢の酩酊、
それは今日の心には痛いけれど、
しかも全く忘れかねた
その上〔かみ〕の日のなつかしい移り香〔が〕。

夕ぐれの時はよい時、
かぎりなくやさしいひと時。

夕ぐれのこの憂鬱は何所〔どこ〕から来るのだらうか?
だれもそれを知らぬ!
(おお! だれが何を知つてゐるものか?)
それは夜とともに密度を増し、
人をより強き夢幻へとみちびく……

夕ぐれの時はよい時、
かぎりなくやさしいひと時。

夕ぐれ時、
自然は人に安息をすすめるやうだ。
風は落ち、
ものの響〔ひびき〕は絶え、
人は花の呼吸をきき得るやうな気がする、
今まで風にゆられてゐた草の葉も
たちまちに静まりかへり、
小鳥は翼の間に頭〔かうべ〕をうづめる……

夕ぐれの時はよい時、
かぎりなくやさしいひと時。



 先週取り上げた三富朽葉の詩集が、友人の増田篤夫の手によって出版されたのは朽葉没後9年後の1926年10月、昭和元年のことであった。その昭和に入ったら、昭和1年、昭和2年…というふうに読んでいきたいと思っているのだが、その前に、大正時代の詩集をもう少し読んでおきたい。
 この「夕ぐれの時はよい時」は、1919年(大正8年)に出版された詩集『月光とピエロ』に収められている。一見、堀口大學らしくない詩ではあるが、後に『月下の一群』(1925年)にまとめられる訳詩の経験が見事に生かされた、忘れがたい詩である。この詩の眼目は、いうまでもなく「夕ぐれの時はよい時、かぎりなくやさしいひと時。」のルフランにある。とりわけ「よい時」の「よい」ということばが味わい深い。この一語のために、この詩は書かれたのではないだろうか。(文責・岡田)