寂寥  高村光太郎
赤き辞典に
葬列の歩調あり
火の気なき暖炉〈ストオヴ〉は
鉱山〈かなやま〉にひびく杜鵑〈とけん〉の声に耳かたむけ
力士小野川の嗟嘆は
よごれたる絨毯の花模様にひそめり
何者か来り
窓のすり硝子〈ガラス〉に、ひたひたと
燐をそそぐ、ひたひたと――
黄昏〈たそがれ〉はこの時赤きインキを過〈あやま〉ち流せり

何処〈いづこ〉にか走らざるべからず
走るべき処なし
何事か為〈な〉さざるべからず
為すべき事なし
坐するに堪へず
脅迫は大地に満てり

いつしか我は白のフランネルに身を捲〈ま〉き
蒸風呂より出でたる困憊を心にいだいて
しきりに電磁学の原理を夢む
朱肉は塵埃〈ぢんあい〉に白けて
今日の仏滅の黒星を嗤〈わら〉ひ
晴雨計は今大擾乱を起しつ
月は重量を失ひて海に浮べり

鶴香水は封筒に黙し
何処よりともなく、折檻に泣く
お酌の悲鳴聞こゆ

ああ、走る可き道を教へよ
為すべき事を知らしめよ
氷河の底は火の如くに痛し
痛し、痛し



 木下杢太郎の「食後の歌」の諸詩篇と高村光太郎の「食後の酒」とを読みくらべると、同じく「パンの会」に出入りしたものの、両者の間には歴然とした違いがあることが了解される。杢太郎が趣味的に傾斜していくのに対して、光太郎は「あらゆるものに対する現状憎悪から来るデカダン性と、その又デカダン性に対する懐疑と、斯かる泥沼から脱却しようとする焦燥とでめちゃめちゃになっていた」。上の詩には、その当時の焦燥がよく現われているが、それよりもむしろ、「力士小野川の嗟嘆は/よごれたる絨毯の花模様にひそめり」とか、「鶴香水は封筒に黙し/何処よりともなく、折檻に泣く/お酌の悲鳴聞こゆ」とかの措辞に現われる光太郎の内面、そのよってきたるところを興味深く思う。(文責・岡田)