詩のなやみ  薄田泣菫
遅日巷の
   塵に行き、
力ある句に
   くるしみぬ。

詩は大海の
   真珠狩、
深く沈めと
   人に聞く。

石を包みて
   玉といふ、
情ある子の
   え堪へんや。

あゝ田に飛んで
   餌にあける、
二羽の雀は
   一銭か。

さば価なふみそ、
   詩に痩せて
髪ほつれたる
   人の子を

薄情人に
   物問ふは、
柱なき細緒を
   掻くが如。

よし答ふるも、
   力なく、
消ゆるに似たる
   響のみ。

こゝに風流の
   秀才あれ、
われ膝折りて
   学ばんに。

こゝに有情の
   少女あれ、
われ手をとりて
   詢らんに。

世に秀才なく、
   少女なく、
われ唯ひとり
   物狂。

雨垂拍子、
   句を切りて、
無才を知るよ、
   今こゝに。


* ルビ註 遅日〔ちじつ〕 巷〔ちまた〕 大海〔わだつみ〕 餌〔ゑ〕 価〔ね〕 薄情人〔あはつけびと〕 柱〔ぢ〕 如〔ごと〕 風流〔ふりう〕 秀才〔すさい〕 有情〔うじやう〕 詢〔はか〕 物狂〔ものぐるひ〕 雨垂拍子〔あまだれびやうし〕 無才〔むざえ〕

 

「詩のなやみ」。すごいタイトルだ(これは「メタポエム」か!?)。このタイトルを目にしただけで、もう、この詩を読み終えた気分になる。「詩のなやみ」を抱える者は、いまもいるだろうが、この「われ」は、なにに「なや」んでいるのだろうか。冒頭、「ち」音と「く」音との頭韻を試みる連では、苦吟する詩人の姿が浮かぶ。この「力ある句」を、後に詩人は「うつくしき句」と改作(改悪?)したが、「なやみ」すぎではないだろうか。
 この詩は、泣菫薄田淳介(1877-1945)の第一詩集『暮笛集』(1899/明治32年)の冒頭に置かれたもので、泣菫22歳の時に書かれたものである。体操教師のいじめなどから、17歳で中学を中退した泣菫は、以後、独学で、和漢洋の古典を読破。21歳で詩人としてデビューし、33歳で詩作を断った。この「詩のなやみ」を、その33歳の時に書かれた詩として読んでみると、別のものが見えてくる。「無才」ということばを、詩人はほかの詩でも書いているが、「われ」が考える「才」とはなんだったのだろう。
 「あゝ大和にしあらましかど」では奈良・斑鳩に、「公孫樹下にたちて」では古代ローマの七つの丘に、思いを馳せた高踏的ロマン主義者。そして、後年、新聞で「茶話」を連載するジャーナリスト。泣菫薄田淳介は、一身にして二生を生きたということだろうか。(文責・岡田)

 *これまでルビを文中に〔 〕で表記してきたが、これからは筆者の判断で必要最小限のルビを詩の後に別記することにした。