北寿老仙をいたむ  与謝蕪村
君あしたに去〔い〕ぬゆふべのこゝろ千々〔ちぢ〕に
何ぞはるかなる
君をおもふて岡のべに行〔ゆき〕つ遊ぶ
をかのべ何ぞかくかなしき
蒲公〔たんぽぽ〕の黄に薺〔なづな〕のしろう咲〔さき〕たる
見る人ぞなき
雉子〔きゞす〕のあるかひたなきに鳴〔なく〕を聞〔きけ〕ば
友ありき河をへだてゝ住〔すみ〕にき
へげのけぶりのはと打〔うち〕ちれば西吹〔ふく〕風の
はげしくて小竹原〔をざさはら〕真すげはら
のがるべきかたぞなき
友ありき河をへだてゝ住〔すみ〕にきけふは
ほろゝともなかぬ
君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々に
何ぞはるかなる
我庵〔わがいほ〕のあみだ仏ともし火もものせず
花もまゐらせずすごすごと彳〔たゝず〕める今宵〔こよひ〕は
ことにたふとき


 これは、茨城・結城の俳人、早見晋我の死を悼んで与謝蕪村がつくった「俳詩」である。晋我が歿したのは延享2年(1745年)というから、この「俳詩」がつくられたのはその頃であろうか。
 萩原朔太郎は「この詩の作者の名をかくして、明治年代の若い新体詩人の作だと言つても、人は決して怪しまないだらう」と云っているが、続く安永6年(1777年)に発表された「春風馬堤曲」「澱河歌」とともに、読む者に強い印象を与える「詩」である。
 我々ハ何処カラ来タノカ――。起源を尋ねる者をロマン主義者というのならば、僕はロマン主義者であるだろう。明治15年(1882年)に刊行された『新体詩抄』をもって、我々の「詩」(近代詩、現代詩)が始まったとするだけではなにも見えてこないと考える以上、「日本の詩」のよってきたるところを尋ねて、さらに遡るしかない。もとより、起源を尋ねることがすべてではない。我々ハ何処カラ来タノカ。ソシテ、コレカラ何処ヘ行クノカ。新しい詩のかたちを探し求めた日本の詩人たちの営為を尋ねることは、いまを生きることでもあると知るのである。(文責・岡田)