くらかけ山の雪  宮澤賢治
たよりになるのは
くらかけつづきの雪ばかり
野はらもはやしも
ぽしやぽしやしたり黝〔くす〕んだりして
すこしもあてにならないので
まことにあんな酵母〔かうぼ〕のふうの
朧〔おぼ〕ろなふぶきではありますが
ほのかなのぞみを送るのは
くらかけ山の雪ばかりです


 2009年最初の詩をなににしようかと考えながら読んでいたのは詩ではない。それは、石川啄木の「弓町より――食うべき詩」であり、「時代閉塞の現状」であり、あるいは宮澤賢治の「農民芸術概論綱要」であり……などなどであった。
 そうして、気がつくと、宮澤賢治の「くらかけ山の雪」を読んでいた。「たよりになる」もの、「あてにな」るものとはなんだろう。「くらかけ山の下あたりで/ゆつくり時間もほしいのだ/あすこなら空気もひどく明瞭で/樹でも艸でもみんな幻燈だ」(「小岩井農場」)と賢治は云っているのだが。
 上記の「くらかけ山の雪」は、賢治が手を入れた宮澤家本によるものだが、初版本では末尾部分は下記のとおりである(初版本でのタイトルは「くらかけの雪」)。

 ほんたうにそんな酵母のふうの
 朧ろなふぶきですけれども
 ほのかなのぞみを送るのは、
 くらかけ山の雪ばかり
   (ひとつの古風な信仰です)

 さらに、次のような詩稿が手帳に書き留められていたことも忘れないでおきたい。

 くらかけ山の雪
 友一人なく
 たゞわがほのかにうちのぞみ
 かすかなのぞみを托するものは
 麻を着
 けらをまとひ
 汗にまみれた村人たちや
 全くも見知らぬ人の
 その人たちに
 たまゆらひらめく
  〔以下空白〕

   *

 この「くらかけ山の雪」を年始めの一篇として、今年もまた気が向くままに詩を読んでいきたい。もとより、詩は反日常である。それはまた、〈反〉であることを通して、〈日常〉に永劫回帰していくものであろう。(文責・岡田)