南画の人間  西脇順三郎
九月の月を考えてみても何も
残つていないのだが
この牧人の日記をかざるのは
空らの籠と蝉の声だけだ
ただ多くの女は受胎のよろこび
をかすかにひそめて歩いている
そうそう名越を廻つて二階堂にいる
小山さんを尋ねたのはこの月だ
郵便局のわきを曲つたとき突然
羅馬人のように「ジューピテル」と叫んだ
この町を通りぬけ向うの山を越えて
行くのはなんと情無いことだろう
町はずれにある長い垣根に白いむくげの花
が咲き珊瑚樹の実がのびている
シャカ堂道をのぼつて行くと
イーソップ物語の木版に出てくる
ような百姓がウナギを探しに来ていた
彼等はロマン・ロランもロトレアモンも
知らない偉大な人間だ
数丈ある岩から山の藤豆が花の咲く
長い蔓をたらして旅人の頬をかする
草むらに地蔵の首がころがつている
谷のそこにある門をたたいた
「ああここかごめん下さい」――
二人は庭を見ながら南画の人間の
ようにチョンマゲを結んで酒を汲み
かわした 「雪が降つていたらいいんですがね」
宋時代の磁器のかけらを目を細くして
すかしてみた 「なるほどね」


 西脇順三郎を読みたくなる気分は周期的にやってくるようだ。「脳髄の日記」を読み返す。読みやすく、明快な文章だ。そして、相変わらず『近代の寓話』をぽつぽつと読んでいる。この「南画の人間」も、なんということもないようでいて、行から行へと渡りゆくことばの動きを味わうことができる。最後の「なるほどね」がいい。ここでも、西脇は「自分の脳髄の中で野原のような詩の世界をつくつてその中で淋しがつて歩」いているのだろうか。
  *
 「今週の詩」を始めて一年半が経とうとするが、回を重ねるごとに痛感するのは、いまの形式の限界である。吉田一穂の詩を取り上げたいと思うのだが、横書きの一穂なんて! とはいえ、当分はこのかたちで続けるしかない。基本的には、長い詩やルビの多い詩は避けて、短かい詩を取り上げていく方針に変わりはない。ただ、これからは、戦後詩/現代詩も織り交ぜながら、さらに気ままに時間を往還していこうと思う。(文責・岡田)