海  萩原朔太郎
 海を越えて、人々は向うに「ある」ことを信じてゐる。島が、陸が、新世界が。しかしながら海は、一の広茫とした眺めにすぎない。無限に、つかみどころがなく、単調で飽きつぽい景色を見る。
 海の印象から、人々は早い疲労を感じてしまふ。浪が引き、また寄せてくる反復から、人生の退屈な日課を思ひ出す。そして日向の砂丘に寝ころびながら、海を見てゐる心の隅に、ある空漠たる、不満の苛だたしさを感じてくる。
 海は、人生の疲労を反映する。希望や、空想や、旅情やが、浪を越えて行くのではなく、空間の無限における地平線の切断から、限りなく単調になり、想像の棲むべき山影を消してしまふ。海には空想のひだがなく、見渡す限り、平板で、白昼〔まひる〕の太陽が及ぶ限り、その「現実」を照らしてゐる。海を見る心は空漠として味気がない。しかしながら物憂き悲哀が、ふだんの浪音のやうに迫つてくる。
 海を越えて、人々は向うにあることを信じてゐる。島が、陸が、新世界が。けれども、ああ! もし海に来て見れば、海は我々の疲労を反映する。過去の長き、厭〔いと〕はしき、無意味な生活の旅の疲れが、一時に漠然と現はれてくる。人々はげつそりとし、ものうくなり、空虚なさびしい心を感じて、磯草の枯れる砂山の上にくづれてしまふ。
 人々は熱情から――恋や、旅情や、ローマンスから――しばしば海へあこがれてくる。いかにひろびろとした、自由な明るい印象が、人々の眼をひろくすることぞ! しかしながらただ一瞬。そして夕方の疲労から、にはかに老衰しながらかへつて行く。
 海の巨大な平面が、かく人の観念を正誤する。

  (註「げつそり」に傍点あり)


 萩原朔太郎の各詩集には、いずれも「自序」が付されている。そのどれを読んでも、詩について徹底的に思索されたことが了解される。そして、そのいずれもが古びていない。『宿命』の「序」として書かれた「散文詩について」という文章も捨てがたい。「散文詩」とはなにか、いまだによくわからないのだが、朔太郎の「散文詩」は、「散文詩」とはなんなのか、そして、詩を読むことのなんたるかを教えてくれるようである。上記の詩は大正15年に発表されたもの。朔太郎41歳。この年あたりから、あの『氷島』詩篇が書き始められたようだ。(文責・岡田)