何の為めに僕  岩野泡鳴
何の 為めに、僕、
樺太へ 来たのか 分らない。
蟹の 缶詰、何だ それが?
酒と 女、これも 何だ?

東京を 去り、友輩に 遠ざかり、
愛婦と 離れ、文学的努力 を 忘れ、
握り得たのは 金でも ない
ただ 僕自身の、力、
これが 思ふ様に 動いて ゐない 夕べには、
単調子な 樺太の 海へ
僕の 身も 腹わたも 投げて しまひたくなる。

 安東次男の「現代詩の展開」は、日本の近現代詩を考える上で、何度でも読み返したくなる文章のひとつである。文壇と詩壇とが乖離していく事情、あるいは昭和初期における小林秀雄と保田與重郎というふたりの批評家……など、独自の視点が提示されている。そのなかで、岩野泡鳴と、中原中也、小林秀雄、富永太郎、大岡昇平、河上徹太郎などを結ぶ線に注意を喚起しているあたり、興味深いものがある。ところで、その安東次男が、西郷信綱、廣末保とともに編んだ『日本詞華集』(未来社)というアンソロジーがあるが、これに収録されているのが上記の詩である。岩野泡鳴(1873-1920)という、このエキセントリックな人を語ることは筆者の手に余るが、この「「実行」のぎりぎりまで追いこまれた棄てばちの」(安東次男)詩は、なぜか捨てがたく思われる。朔太郎を読んでいると、口語自由詩のことを考えないわけにはいかなくなり、そのあたりをふらふらしているうちに、この泡鳴の詩にぶっつかったという次第。ちなみに、この詩は、泡鳴最後の詩集『恋のしやりかうべ』(1915年/大正4年)に収められた。実際にこの詩が書かれたのはその5年ほど前、樺太で缶詰工場を起こすが失敗して北海道を放浪していた頃であろう。(文責・岡田)