大宣辞  山村暮鳥
かみげはりがね
ぷらちなのてをあはせ
ぷらちなのてをばはなれつ
うちけぶるまきたばこ。
たくじやうぎんぎよのめより
をんなのへそをめがけて
ふきいづるふんすゐ
ひとこそしらね
てんにしてひかるはなさき
ぎんぎよのめ
あかきこつぷををどらしめ。


 朔太郎の「青猫」詩篇をただ紹介していくだけでは芸がないと考えて(――しかし、このまま朔太郎の詩に永遠的に誘惑されてもかまわないこともたしかなことではあるのだが)、朔太郎の周辺にも少し目を向けていきたい。それは、詩の現在を考えるに無駄なことではないだろう。大正4年(1915年)3月、「主として詩、宗教、音楽の研究を目的と」して、萩原朔太郎、室生犀星、山村暮鳥によって創立された人魚詩社から「卓上噴水」が創刊された。編集発行人は犀星。誌名は犀星がつけたが、朔太郎によれば、「昔、インドの王族は豪華な宴会のとき一オンス何千円という高価な香水で卓上に噴水をつくった。世界最古のゼイタクである」という。その創刊号に、朔太郎と暮鳥がそれぞれ詩二篇を書いていて、上記の詩はそのひとつ。「卓上噴水」という誌名に想を得て、集中して作られたものと思われる。「うちけぶるまきたばこ」あたりには犀星的人物が窺われる。この詩は『聖三稜玻璃』に収められた。「卓上噴水」は同年5月発行の三号で終刊となり、やがて暮鳥は朔太郎、犀星とは別の道を行くことになる。暮鳥の『聖三稜玻璃』から『雲』への歩みを解析することは迂生の手に余ることである。「卓上噴水」創刊時、暮鳥は31歳であった。(文責・岡田)