艶めかしい墓場  萩原朔太郎
風は柳をふいてゐます
どこにこんな薄暗い墓地の景色があるのだらう。
なめくぢは垣根を這ひあがり
みはらしの方から生〔なま〕あつたかい潮みづがにほつてくる。
どうして貴女〔あなた〕はここに来たの
やさしい 青ざめた 草のやうにふしぎな影よ
貴女は貝でもない 雉〔きじ〕でもない 猫でもない
さうしてさびしげなる亡霊よ
貴女のさまよふからだの影から
まづしい漁村の裏通りで 魚のくさつた臭ひがする
その腸〔はらわた〕は日に日にとけてどろどろ生臭く
かなしく せつなく ほんとにたへがたい哀傷のにほひである。

ああ この春夜のやうになまぬるく
べにいろのあでやかな着物をきてさまよふひとよ
妹のやうにやさしいひとよ
それは墓場の月でもない 燐〔りん〕でもない 影でもない 真理でもない
さうしてただなんといふ悲しさだらう。
かうして私の生命〔いのち〕や肉体〔からだ〕はくさつてゆき
「虚無」のおぼろげな景色のかげで
艶〔なま〕めかしくも ねばねばとしなだれて居るのですよ。


 あの「虚無の鴉」をはじめとして、朔太郎の「虚無」ということばに惹かれる。ここでも、「貝でもない 雉でもない 猫でもない」「墓場の月でもない 燐でもない 影でもない 真理でもない」(この否定のリズムはジョン・レノンのGODを思い出せる)、そして「ただなんといふ悲しさだらう」と、虚無が言表される。『月に吠える』の感覚的世界から『青猫』の超感覚的世界へのうつりゆきは、詩とはなにかと考える者を眠らせない。(文責・岡田)