燈台へ行く道  西脇順三郎
まだ夏が終わらない
燈台へ行く道
岩の上に椎の木の黒ずんだ枝や
いろいろの人間や
小鳥の国を考えたり
「海の老人」が人の肩車にのつて
木の実の酒を飲んでいる話や
キリストの伝記を書いたルナンという学者が
少年の時みた「麻たたき」の話など
いろいろな人間がいつたことを
考えながら歩いた
やぶの中を「たしかにあるにちがいない」と思つて
のぞいてみると
あの毒々しいつゆくさの青い色もまだあつた
あかのまんまの力も弱つていた
岩山をつきぬけたトンネルの道へはいる前
「とべら」という木が枝を崖からたらしていたのを
実のついた小枝の先を折つて
そのみどり色の梅のような固い実を割つてみた
ペルシャのじゅうたんのように赤い
種子(たね)がたくさん、心(しん)のところにひそんでいた
暗いところに幸福に住んでいた
かわいゝ生命をおどろかしたことは
たいへん気の毒に思つた
そんなさびしい自然の秘密をあばくものでない
その暗いところにいつまでも
かくれていたかつたのだろう
人間や岩や植物のことを考えながら
また燈台への道を歩きだした


  この暑さが、詩のなかに夏を探そうとさせたのだろうか。この夏は、歳時記を繰るようにして、詩集を読むことが多かったような気がする。それは、「自然と詩」について考える機会でもあった…か。
 いい加減、そんな渉猟/逍遙に厭いて、ただぼおっと順三郎の詩行を追っていたら、ふっと目の前にこの詩が現われた。ギリシャ的/地中海的な構図の中を行く詩人の前に現われた、かくされた〈さびしさ〉。西脇詩学を絵に描いたようなものだが、この「燈台へ行く道」は、いま、わたし(たち)が行く道でもあるように思われた。(文責・岡田)