寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ  伊東静雄
耀(かがや)しかつた短い日のことを
ひとびとは歌ふ
ひとびとの思ひ出の中で
それらの日は狡(ずる)く
いい時と場所とをえらんだのだ
ただ一つの沼が世界ぢゆうにひろごり
ひとの目を囚(とら)へるいづれもの沼は
それでちつぽけですんだのだ
私はうたはない
短かつた耀かしい日のことを
寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ


 検索としてではなく、ただぱらぱらとあてもなくアンソロジーを読む時間は、詩を味わう無上の時間であるけれども、それは、一方で、いまは読まれなくなった詩と向かい合う時間でもある。残る詩、残らない詩といった、身も蓋もない話はしたくないが、詩の時間ということについては考えさせられる。渋沢孝輔の『蒲原有明論』を読み始めた。
 この伊東静雄の詩は、詩について考えさせる詩のひとつだ。一行一行をゆっくりと読む。「それらの日は狡く」という措辞など絶妙としか云いようがない。もとより、「私はうたはない」と闡明することが本意ではない。「寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ」と、「私」の消失こそが闡明されているのだ。(文責・岡田)