帰郷者  伊東静雄
自然は限りなく美しく永久に住民は
貧窮してゐた
幾度もいくども烈しくくり返し
岩礁にぶちつかつた後(のち)に
波がちり散りに泡沫になつて退(ひ)きながら
各自ぶつぶつと呟くのを
私は海岸で眺めたことがある鈔
絶えず此處で私が見た帰郷者たちは
正(まさ)にその通りであつた
その不思議に一様な独言は私に同感的でなく
非常に常識的にきこえた
(まつたく! いまは故郷に美しいものはない)
どうして(いまは)だらう!
美しい故郷は
それが彼らの実に虚しい宿題であることを
無数な古来の詩の讃美が証明する
曾てこの自然の中で
それと同じく美しく住民が生きたと
私は信じ得ない
ただ多くの不平と辛苦ののちに
晏如(あんじよ)として彼らの皆が
あそ處(こ)で一基の墓となつてゐるのが
私を慰めいくらか幸福にしたのである


 詩とはなんだろう……そう考えながら、詩のアンソロジーを読む時間が嫌いではない。萩原朔太郎が編んだ「昭和詩鈔」は、時折り手にする一冊であるが、開巻冒頭に置かれた伊東静雄の詩を読むたびに感嘆させられる。その措辞の完璧に驚かされるとともに、詩というものに驚かされるのである。かつて、大岡信氏は、三好達治と伊東静雄を比較して、「主題を表現するために言葉があった詩人(三好)と、すでに存在している主題を言葉によって可能な限り消去してゆき、その消去法から結果するはずの、言葉の充溢した空無のうちに、時空の日常的限定を脱したポエジーそのものの出現を期待した詩人(伊東)との違いだったといっていい」と述べたが、至言であると思う。静雄の詩を読んだ後、ヘルダーリンの「帰郷」を読む。その長詩は次の二行で閉じられている。「憂愁を 否応なしに歌人(うたびと)は/心の内に荷わねばならぬ 世の人々とは異なって」(川村二郎訳)  (文責・岡田)