道程  高村光太郎
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため


 高村光太郎の「道程」は、大正3年(1914年)2月9日に作られ、「美の廃墟」3月号に発表されたが、そのときは102行の長詩であった。それが9行の詩となり、詩集『道程』が刊行されたのは同年10月。長沼智恵子と結婚したのは12月であった。
 この102行の「道程」は、現「道程」の註であり、高村光太郎の註であろう。「どこかに通じてゐる大道を僕は歩いてゐるのぢやない」という一行に始まるこの長詩は、「何といふ曲りくねり/迷ひまよつた道だらう/自堕落に消え滅びかけたあの道」という詩行を経て、「あのやくざに見えた道の中から/生命(いのち)の意味をはつきりと見せてくれたのは自然だ/これこそ厳格な父の愛だ」と続く。このくらいの引用からでも見えてくることは少なくない。
 詩集『道程』は、「泥七宝」のあたりを、つまり、長沼智恵子との出会いを境として、デカダンスや葛藤は姿を消して、「自然」を媒介として、世界を肯定する(受け容れる)トーンが主調をなしてくる。「ああ、自然よ/父よ」。
 「元来私が詩を書くのは実にやむを得ない心的衝動から来るので、一種の電磁力鬱積のエネルギー放出に外ならず」ということばから推察されるとおり、「生活的断崖の絶端をゆく」そのゆき方により、詩のことばは変容を避けられない。詩は、ことばの自律によって成ると考えるとき、近代日本の詩人として、ユニークな道(詩と生との緊張/葛藤をどこまで窮められるか、という試みはいまなお有効たりえるだろう。ついに生は詩の影であるにしても)を往こうとした高村光太郎のこの転調は、以後、智恵子との関係、戦争との関係において、幾重にも屈折を重ねていくことになる(例えば、宮沢賢治の「永訣の朝」と光太郎の「レモン哀歌」との違い)。
 この光太郎シリーズ(?)、今回で一区切りとしたい。ただ、光太郎の詩を読んでいくなかで、いくつかの主題が現われてきたが、そのひとつに、「詩と他者」という主題がある。他者、他なるもの。他者に意識的な詩人(光太郎はそのひとりであろう)がいれば、他者に無関心、無意識な詩人もいる(小乗的、ということばが適当でなければ、独覚的といおうか)。そして、あるいは、他者に無関心だが、いやおうなく他者に巻き込まれた詩人もいるだろう。詩は、他者といかに関わり、いかに関わらないのか。これもまた持続的に考えていきたい。(文責・岡田)