父の顔  高村光太郎
父の顔を粘土(どろ)にてつくれば
かはたれ時の窓の下に
父の顔の悲しくさびしや

どこか似てゐるわが顔のおもかげは
うす気味わろきまでに理法のおそろしく
わが魂の老いさき、まざまざと
姿に出でし思ひもかけぬおどろき
わがこころは怖いもの見たさに
その眼を見、その額の皺を見る
つくられし父の顔は
魚類のごとくふかく黙すれど
あはれ痛ましき過ぎし日を語る
そは鋼鉄の暗き叫びにして
又西の国にて見たる「ハムレット」の亡霊の声か
怨嗟(ゑんさ)なけれど身をきるひびきは
爪にしみ入りて瘭疽(ひやうそう)の如くうづく

父の顔を粘土にて作れば
かはたれ時の窓の下に
あやしき血すぢのささやく声……


 「僕は詩人ぢや無い。只自分の思って居る事を詩や画に現はすに過ぎないんだ」、あるいは、「自分の考へでは、詩は言語活動(ランガアジ)のお祭ではない。詩は言葉そのものの生まれなければならなかつたその源初の要求にいつでも眼ざめてゐる者の言語活動の最も純粋な瞬間における記録である」……。「詩とは人が如何に生くるかの中心より迸る放射のみ。」という詩人・高村光太郎は、彫刻家・高村光太郎なくしてはありえなかった。そこが、他の詩人たちと別れるところだが、そこに逆説的に詩のなんたるかを見出す契機が少なからずあることもまたたしかなことである。
 光太郎にとって、他者との関係における自己は重大な問題であった。それがもたらす葛藤は光太郎の自我を分裂させたが、それを通して自己をつくりあげてもいった。詩人・高村光太郎を決定づけた他者は、とりわけ、父高村光雲と長沼智恵子のふたりだった。神仏人像彫刻師であり、帝室技芸員であり、東京美術学校教授である高村光雲が光太郎にもたらした葛藤は次のようなものであった。即ち、「親と子は実際講和の出来ない戦闘を続けなければならない。親が強ければ子を堕落させて所謂孝子に為てしまう。子が強ければ鈴虫の様に親を喰ひ殺してしまふのだ」。
 分裂する自我を超えていくには、文語定型詩ではなく、口語自由詩でなくてはならなかった。「父の顔」は、詩集『道程』では、先週取り上げた「泥七宝」の前に置かれているのだが、そういう葛藤の臨界点をしめしている。(文責・岡田)