食後の酒  高村光太郎
青白き瓦斯の光に輝きて
吾がベネヂクチンの静物画は
忘れられたる如く壁に懸れり

食器棚(ビュッフェ)の鏡にはさまざまの酒の色と
さまざまの客の姿と
さまざまの食器とうつれり

流し来る月琴の調(しらべ)は
幼くしてしかも悲し
かすかに胡弓のひびきさへす

わが顔は熱し、吾が心は冷ゆ
辛き酒を再びわれにすすむる
マドモワゼル、ウメの瞳のふかさ


 「あなたにとって、詩とはなんですか?」という問いほど非詩的な問いはないだろう。とは思いつつも、高村光太郎にとって、詩とはなんだったのだろう……と考えたくなるのはなぜだろう。
 光太郎の「詩とは人が如何に生くるかの中心より迸る放射のみ。」ということばに明らかなように、光太郎は「詩というものを、生きることの実践と深くかかわらせてとりだしていた」(黒田喜夫)「詩人」である。編年体(明治43年/1910年―大正3年/1914年)で構成された詩集『道程』に見出されるのは、その詩と生との葛藤、そして、そこからの後退である。
 光太郎曰く、「真に詩を書く心を得しは一九一〇年以後の事なり」と。上記の詩は翌1911年に書かれたものである。当時、光太郎は、パンの会で、白秋や杢太郎などと酒と文学に耽溺していた。だが、光太郎がかかえていたものは、杢太郎の「食後の歌」などとは異なるものであった。そういうことが了解される詩である。(文責・岡田)