根付の国  高村光太郎
頬骨が出て、唇が厚くて、眼が三角で、名人三五郎の彫つた根付(ねつけ)の様な顔をして、
魂をぬかれた様にぽかんとして
自分を知らない、こせこせした
命のやすい
見栄坊な
小さく固まつて、納まり返つた
猿の様な、狐の様な、ももんがあの様な、だぼはぜの様な、麦魚(めだか)の様な、鬼瓦の様な、茶碗のかけらの様な日本人


 詩は、詩によってではなく、非詩(詩ではないもの)によって、現われることがしばしばある。この「根付の国」は、激烈なるもの=非詩によって、詩たりえているところがある。もとより、この激烈さには、足下を掬われるナイーヴさがあるだろう。だが、純一への志向において発動された、この激烈なるものを否定することは難しい。なぜ難しいかといえば、そこに自律した単独者への契機を見るからである。
 ここで註記すれば、僕はこれまで高村光太郎をよく読んできたわけではないし(僕が好きな近代詩人は萩原朔太郎である)、この「根付の国」という詩も、それほどいい詩とは思えないし、好きなわけでもない(だが、重要な詩ではあると思う)。ただ、『道程』という、日本近代詩史上にとくべつな位置を占める詩集が胚胎していたものがなんであるか探ることを通して、「詩とはなにか」と考えてみたい誘惑にさからうことができないのである。(文責・岡田)