はてしなき議論の後  石川啄木
           一九一一・六・一五・TOKYO
われらの且つ読み、且つ議論を闘はすこと、
しかしてわれらの眼の輝けること、
五十年前の露西亜の青年に劣らず。
われらは何を為(な)すべきかを議論す。
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓(たく)をたたきて、
‘V NAROD!’と叫び出(い)づるものなし。

われらはわれらの求むるものの何なるかを知る、
また、民衆の求むるものの何なるかを知る。
しかして、我等の何を為すべきかを知る。
実に五十年前の露西亜の青年よりも多く知れり。
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘V NAROD!’と叫び出づるものなし。

此処にあつまれるものは皆青年なり、
常に世に新らしきものを作り出す青年なり。
われらは老人の早く死に、しかしてわれらの遂に勝つべきを知る。
見よ、われらの眼の輝けるを、またその議論の激しきを。
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘V NAROD!’と叫び出づるものなし。

ああ、蝋燭はすでに三度も取り代へられ、
飲料(のみもの)の茶碗には小さき羽虫の死骸浮び、
若き婦人の熱心に変りはなけれど、
その眼には、はてしなき議論の後の疲れあり。
されど、なほ、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘V NAROD!’と叫び出づるものなし。

  *‘V NAROD!’――「人民の中へ!」


 「はてしなき議論の後」など六篇の詩が書かれたのは、明治四十四年(1911)の六月十五日の夜から十七日にかけてのことであった。その少し前、五月に、啄木は、幸徳秋水の「A LETTER FROM PRISON」を書き写し、その注釈を始めたが、その注釈が途絶えた後のことである。「明日の考察! これ実に我々が今日において為すべき唯一である、そうして又総てである」。もはや、啄木には書くことがなかった。実践があるばかりであった。しかし、「食を需めて流れ歩」くさすらいの生活はついに「改善」されることなく、明治四十五年四月十三日朝、父、妻、若山牧水にみとられながら、啄木はこの世を去った。享年二十七歳。(文責・岡田)