呼子の笛  石川啄木
げに、かの場末の縁日の夜の
活動写真の小屋の中に、
青臭きアセチリン瓦斯(ガス)の漂へる中に、
鋭くも響きわたりし
秋の夜の呼子の笛はかなしかりしかな。
ひよろろろと鳴りて消ゆれば、
あたり忽ち暗くなりて、
薄青きいたづら小僧の映画ぞわが眼にはうつりたる。
やがて、また、ひよろろと鳴れば、
声嗄れし説明者こそ、
西洋の幽霊の如き手つきをして、
くどくどと何事をか語り出でけれ。
我はただ涙ぐまれき。

されど、そは三年(みとせ)も前の記憶なり。

はてしなき議論の後の疲れたる心を抱き、
同志の中の誰彼(たれかれ)の心弱さを憎みつつ、
ただひとり、雨の夜の町を帰り来れば、
ゆくりなく、かの呼子の笛が思ひ出されたり。
――ひよろろろと、
また、ひよろろろと――

我は、ふと、涙ぐまれぬ。
げに、げに、わが心の餓えて空(むな)しきこと、
今も猶(なほ)昔のごとし。


 今週も啄木である。啄木の詩を読みながら、さすらう啄木を考える。あるいは、「思想としてのさすらい」、はたまた「さすらいとしての思想」か。(文責・岡田)