泣くよりも  石川啄木
その人に、夢の中にて、
いつの年、いつの夜としもわかなくに、
我は逢ひにき。
今はや死にてやあらむ。
したたかに黒き油を鬢にぬり、
病みて臥す白き兎の毛の如も
厚き白粉(おしろい)、
血の色の紅をふくみて、
その人は、少女(をとめ)に交り、みだらなる
うたの数々、晴やかに三味(さみ)かきならし、
火の如つよく舌をやく酒を呷(あふ)りぬ、
水の如。
居ならぶ二十歳(はたち)ばかりの
酒のまぬ男らなりき。

『何故にさは歌ふや。』と我とひぬ。
ゆめの中にて。
その人は答へにけらく、
酔ひしれし赤き笑ひに、
『泣くよりも。』


 明治41年(1908年)3月、石川啄木は文学で身を立てるべく、家族を宮崎郁雨に託して上京、本郷菊坂町の下宿赤心館で、新しい生活を始める。「泣くよりも」連作の八篇は、5月24日、宮崎郁雨から、長女・京子重態の知らせを受けて、「小説を書く日ではない!」として、一気に書き上げられたという。「食ふべき詩」が書かれるのは翌42年。本郷菊坂通りを歩く啄木の姿が見えてくる。(文責・岡田)