茉莉花(まつりくわ)  蒲原有明
咽(むせ)び嘆かふわが胸の曇り物憂き
紗の帳(とばり)しなめきかかげ、かがやかに、
或日は映る君が面(おも)、媚(こび)の野にさく
阿芙蓉(あふよう)の萎(ぬ)え嬌(なま)めけるその匂ひ。

魂(たま)をも蕩(た)らす私語(さゝめき)に誘はれつつも、
われはまた君を擁(いだ)きて泣くなめり、
極秘の愁、夢のわな、――君が腕(かひな)に、
傷ましきわがただむきはとらはれぬ。

また或宵は君見えず、生絹(すゞし)の衣(きぬ)の
衣ずれの音のさやさやすずろかに
ただ伝ふのみ、わが心この時裂けつ、

茉莉花の夜の一室(ひとま)の香(か)のかげに
まじれる君が微笑(ほゝゑみ)はわが身の痍(きず)を
もとめ来て沁みて薫りぬ、貴(あて)にしみらに。


 蒲原有明といえば、象徴詩である。象徴詩といえば、今日もなお詩の主題として論じられるべき意味を失っていない。この「茉莉花」は、その官能の歌いぶり(個人的には、ブライアン・フェリーを想起させるところあり)、措辞の緊密さにおいて、間然するところがない。有明は小説「夢は呼び交す」のなかで「鶴見がそこに気がついてから、それを苦にして漸くにしてたどりついたのが言葉の修練ということである。先づ自分に欠けてゐる情趣を自分のなかから作り出さうという考に到達した」と書いている。有明の詩は「遊戯詩」といわれたが、「あそびはもはや余技ではない」「わが密厳詩、そこに同時に貪る刹那を聴く」と書いた有明の「妄執の道」は、いまも詩を書く者に問い続けている。(文責・岡田)