恋のわな  薄田泣菫
あけぼの破(わ)るゝ光にながれ、
   然(さ)りやな、
  君にまとひて、
 面照(おもでり)はなにほてるまで、
   さりやな、
  恋のたはむれ、
   さりなや。

日なか小百合の萼(うてな)にかくれ、
   さりなや、
  君に折られて、
 息のかをりに咽(むせ)ぶまで、
   さりやな、
  さても口づけ、
   さりやな。

夜ぶか夜殿(よどの)の夢路にひそみ、
   さりやな、
  をぐな姿や、
 君と花野のめぐりあひ、
   さりやな、
  胸もゆらゝに、
   さりやな。

はては黄泉戸(よみど)の真闇(まやみ)にしのび、
   さりやな、
  君を待ちえて、
 諸手やはらかにかき擁(いだ)き、
   さりやな、
  ながき眠に
   さりやな。


 藤村・晩翠の後を襲ったのは、薄田泣菫(明治10年/1877年―昭和20年/1945年)と蒲原有明(明治9年/1876年―昭和27年/1952年)のふたりだった。いわゆる「難解詩」の登場である。だが、真に「難解」なのは、詩の「意味」ではなく、詩の「理由」である。蒲原有明が提示したもの(詩を書くことのなんたるか)は今日もなお生きている。 
 今週は泣菫の「恋のわな」を取り上げるのだが、泣菫と有明には似ているところがいくつかあるように思われる。1独学であること、2詩壇で活躍した時期は、泣菫が明治30年―42年、有明が明治31年―41年。ともに、その古風・晦渋を批判されて、詩作を断った(有明の改作癖はその後もやむことはなかったが)。3一般に、ふたりの代表作とされるのは、泣菫が「ああ大和にしあらましかば」「望郷の歌」、有明が「智慧の相者は我を見て」「茉莉花」と、それぞれ二篇……。
 笑い話として付け加えれば、その昔(いまも?)、泣菫と有明の詩を見分けることができるか……などと友人と語り合ったことなども思い出されるが、上記の「代表作」を読みくらべると、ふたりの違いがなんとなく了解される刹那もある。一般には、泣菫は古典的高踏詩人、有明は象徴詩人といわれるが、藤村、透谷、泣菫、有明……と読んでくると、「恋」を主題のひとつとして、詩を、詩人を語りたい気分に誘われる。泣菫の「恋のわな」も、そのようにして捨てがたく手元に残った詩のひとつである。(文責・岡田)