雨  与謝野鉄幹
釘が降る、降る、鋲が降る、
生あたたかい釘が降る、
暗い空から留度(とめど)なく。
なんと毒性(どくしやう)な五月雨ぞ、
世界の何処に降ることか、
降るは東の涯ばかり。

黒板塀に黒い屋根、
牢屋のような日本家(にほんや)に、
今日も降る、降る、十重二重、
鉄の格子を入れて降る、
灰の色した張金(はりがね)を
雁字(がんじ)がらみに編んで降る。

壁も、柱も、椅子の背も、
鏡の枠も、ペン軸も、
本の背皮も、薄じろく
一夜の内に黴が生へ、
じめじめとする手触りは
蛇の窟(むろや)に住むここち。

吹き入る雨を避けながら、
雨戸の蔭にじつと居て、
物を思へば、床下の
茸のやうに気が腐る。
二十日、ひと月、日を見ずに、
聴くは涙の重い音。

さればと云つて何処へ行こ、
修験のやうな高下駄で、
騎兵のやうな長靴で、
天子のいますお膝もと、
一足ごとに沼を踏み、
肩まで泥の跳ぶ路を。


 この「雨」という詩は、大正4年(1915年)に刊行された詩集『鴉と雨』に、「誠之助の死」などとともに収録されているが、書かれたのは、ヨーロッパに行く(明治44年)前のことである。「当時の自分は幻滅と、倦怠と、および焦燥との中に醜く懊悩して居た。此集には唯だ自分の悔恨がある、毫末の自負も無い」と、鉄幹はその跋にいうが、この「雨」を読むと、ただ「醜く懊悩して居た」ばかりではないことが了解される。
 鉄幹の詩の高さを認めていた日夏耿之介は、「行き詰まつた詩境を一転せんとした」ヨーロッパの旅から帰ってきた鉄幹について次のようにいっている。「永久に若さと驚きと衒気とを失はぬ彼が、死ぬるまでその詩作をつゞけてゆくであらうことを、又、死ぬるまで完成の域にはとても到達しなからうことを感じる。与謝野寛は永久の未完成である。こゝに、われらの彼に対する同情的興味と価値判定とが在る」(文責・岡田)