極北の頁  富田砕花
いぢらしく痛ましい霊魂よ、
君は何処へかへらうといふのか。

視野の一切は
灰色の霧のなかに踊る凍ってゐる交響楽で、
ジインといふ空洞(ほらあな)のなかで木霊(こだま)が
はてもなく揺曳(えうえい)してゐる大きな空虚の世界だ、
その透明な水晶体の砂漠のうへにこぼされた
黒胡麻の粒のやうな人間が。
喚いたつて、叫んだつて、
答へるものはただジインという木霊だけなのだ、ただジインといふ……。

それはそれでいい、
だが、(君は想像を中断してはならない)
水晶体の巨大な母体で、
人々の焚き棄てた燃し木の灰のなかから、
翼馬(ペガサス)の迅速さで駆け昇つたものがある、
さうだ確かに駆け昇つたものがある、
そしてぴたりと帆船の大檣の突端(とつぱな)にひつついた、
それは形体(かたち)の無いものだ、
だが人々は現実にそれを見た、
そして震へ上つた、
今し方、僚友の亡骸をメラメラと舐めつくした火は、
まだはつきりと人々の眼に烙(や)きつけられてゐた。

人々は黙つて錨をあげて
帆走(ほばし)る、帆走る、
噫(ああ)、巨万の富に代はる旺(さか)んな猟の獲物さへも。
人々は瞬間のほどは忘れた、
一心に帆走る、帆走る、
だが、暗夜のむかうから押し迫つて来る曙のやうに、
また幸福な夢のやうに、
やがて遠い遠い港の紅い灯を想ふことが
彼れらに踴躍(ようやく)を感じさせるやうになると
一切合切が霧のやうに忘却されてゆく……。

いぢらしく痛ましい霊魂よ、
君は何処へかへらうといふのか。


 すでにお知らせしましたように、このたび秋川久紫さんの『花泥棒は象に乗り』が第十八回富田砕花賞を受賞されました。富田砕花といえば、民衆詩派の詩人ということを知るばかりで、その詩をあまり読んだことがありませんでしたが、秋川さんの受賞を機会にそのいくつかの詩を読んでみました。上の詩はその一篇ですが、第三連冒頭の二行は、地上性に留まらない詩人の矜持が表出されているようで、印象に残ります。(文責・岡田)