水のほとりに  三富朽葉
水の辺(ほと)りに零(こぼ)れる
響ない真昼の樹魂(こだま)。

物の思ひの降り注ぐ
はてしなさ。

充ちて消えゆく
もだしの応(こた)へ。

水のほとりに生もなく死もなく、
声ない歌、
書かれぬ詩、
いづれか美(うるは)しからぬ自らがあらう?

たまたま過ぎる人の姿、獣のかげ、
それは皆遠くへ行くのだ。

色、
香(か)、
光り、
永遠に続く中(なか)。



 詩の(「現代詩」の)起源を尋ねる旅は、ついに己れを尋ねる遍歴でもあるのだろうか。柳村上田敏の『海潮音』をしるべに、象徴の森をさまよっているとき、三富朽葉(みとみきゅうよう)を読むと、一瞬、視界が開かれる印象を覚える。

「おお季節、おお寨(とりで)!
 如何なる魂か欠点なき?」(三富朽葉訳)

 大正六年、二十九歳の朽葉は、千葉・犬吠岬で今井白楊とともに溺死する。”青春の詩人”三富朽葉が残した詩篇は、いまも「遠くまで」行くようにと誘惑してやまない。(文責・岡田)