東京で作品が書けた。二十代の頃って自分が住んでいた場所を拒否し、唾棄するところってあるでしょ。Anywhere out of the world!(この世界の他ならどこへでも!)こんな世界から抜け出したいっていうね。そういうものが爆発的な表現に向かう。言葉にはそうした「溜め」の力が必要なんです。

さあ、着きました。若き賢治が住んだ跡です。きちんと説明の看板がありますね。

さっきの話のつづきになりますが、東京から自分の土地を見直すというのは、言葉についても言えることです。賢治の作品によく使われる方言は、東京にきたからこそ確信が持てたと思うんですね。もし東京に来なかったら自分の土地の言語を振り返る契機を持てなかった東京に来たことがそのきっかけになったに賢治の場合は自分の土地の言語を「方言」とは捉えずにいた気がします。最近読み直していて、なぜ賢治の作品に方言が自然に入っているのかと考えてみたんです。この時代はまだ標準語と地方語がはっきりと分派していない治以降の国語政策で標準語が推し進められますが、まだ賢治

の時代には浸透していない。にもかかわらず、賢治の詩はきわめて都会的なモダニズムというか、近代的な要素が強い。子供の頃から科学雑誌をたくさん読んでいたり、花巻高校の先生をしていたときは科学実験をたびたびして、教え子が強烈な印象を受けたと述懐しています。賢治の詩にはそうした岩手の地方性と近代性が相まった面白い要素がある。

このことはあの有名な桃源郷としての「イーハトーヴォ」という造語にも端的にでてます。あれは「岩手(イハテ)IHATE」と賢治が当時学んだエスペラント語の「卵OVO」が連結した合成語で、できています。つまり「岩手の卵」という意味ですが、賢治はこういうふうに、東京に来て、もう一度故郷の命名をしなおしているんです。どうしてこんなことをするかといえば、賢治にとって岩手は何もない場所だったと言える。ひとつひとつネーミングをし直すことで、その土地や空間を創り直す。(作品「ポラーノの広場」に出てくる地名や人物の命名を参照。)賢治ほど自分の土地(モリーオ市、センダーノ市等)を新しく言い直した人はいません。ぼは十八歳のとき半世紀前です。岩手に行って「イーハトーヴォ」(イーハトーブ)を見てきましたが、驚きました。まだ観光地化されてない時代で、何もないんです。森があって、ポプラの木があるだけ。でもここを賢治はすべての生命が生まれる「卵」(エスペラント語で「オーヴォ」)の場所「イーハトーヴォ」と命名した。賢治の命名の仕方は意図的ですね。人物名はなかなかハイカラです。

   盛岡高等農林在学時の宮沢賢治(後列右)

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