詩人観の内在化 初出関係に言及する目的は、それが正統側ではなく異端側に早くに顕現するのを確認することにあったが、その後の展開でも自己規定としての詩人がキリスト教関係者によって内在化していくのを知るとき、その後の詩人観にも関わる初出関係の詩史的意義を再認識させられる。明治三〇年までを概観すると、北村透谷の『蓬莱曲』出版年である明治二四年に一つの画期があるのを知る。『蓬莱曲』「序」に見える一くだりは、他人からではなく、自ら強く詩人を発意した一文である。植村が求めたものの自発形であり、まさに強い自己規定としての「詩人」である。同時に詩人観の自己昇華である。

 

蓬萊山は大東に詩の精を迸發する、千個不變の泉源を置けり、田夫も之に對してはインスピレイシヨンを感じ、學童も之に對して詩人となる、余も亦た彼等と同じく蓬萊嶽に對する詩人となれること久し、回顧すれば十有六歳の夏なりし孤筇其絶嶺に登りたりし時に余は始めて世に鬼神なる者の存するを信ぜんせし事ありし。(北村透谷『蓬莱曲』「序」、傍線引用者)

 

しかしその一方で、同じ明治二四年の中西梅花の詩集に寄せられた、人口に膾炙した諸氏(四氏)の「序」「跋」には詩人の使用は見出せない。例外的に鷗外が繰り返し使うが、「ギョオテ」の詩人論の訳文中のことである。訳文を寄せて「題言」としたのである。見出せるのは、号(梅花道人)から採られた「道人」の使用ばかりである。

本人像が「詩人」に相応しくなかったのであろう。気性のことである。それに当の本人はと言えば、一か所に使用が認められるが、使い方は一般名詞の域を出ない。他人(鬼貫=上田鬼貫一六六一‐一七三八、俳諧作者)の「獨語」を引いて「自序」に代えたくだりである。その「獨語」を指して言うのに、「よく若き詩人の病を箴しぬ」と、どこか他人事を装って一歩引き気味である。しかし、これも、おそらくは気性の内のきまり悪さに出た口振りなのだろうと推し量るとき、実は内面では透谷に準ずる状態であったのを知ることになる。「詩人を」と言わず「詩人の病を」と、「病」の修飾語にしているからである。その梅花はと言えば、キリスト教徒ではない。ただ下記のとおり「敗残者」の一員である。

下って明治二七年には、「詩人宮崎湖処子」(『湖処子詩集』「凡例」)のような定冠詞的な使用例も認められる。探せば他にも諸例を見出せるだろう。これは用法としての汎称化を現象として物語っている。キリスト教関係者に偏在的な詩人観にもすでに意味がないかのように思われるが、同年の明治二七年における「詩人」を詩題にもつ作品例が物語るのは、一人の洗礼者の心の裏側である。かえってキリスト教関係者に早かったのもそのためであったのを改めて知ることになる。

同作品は、川残花の作にかかる詩篇である。表向きの用法は、我邦の詩・歌人全般から西欧・東洋の詩作者を汎く名指す、すでに汎称化しつつある一般名詞的なものであるが、個人の心の深奥ではそうなっていない。意識的にあるいは暗黙裡に汎称を装いながら自己に特化した「詩人」の使用法である(とりわけ第四聯の後半部「朽つるといふハ仇言ぞ/死するといふは偽りぞ/千代に八千代にきわみなし」)。

同二七年に残花は、五月に縊死した友人北村透谷に対し、「詩人」(一月)に続いて哀悼詩「北村透谷君をいたみて」(五月)を捧げる。哀悼詩の詩行を貫く悲哀感に偲ばれるのは、あらためて「詩人」を一般論に見せかけにしていた、前作の行間に籠められた想いである。残花にとって心の奥深くにある「詩人」とは、悲愴感を一身に纏う者の別名であった。自身一人としては、敗残者が名乗るべき想いが強かったにちがいない。まさに自分であったからである(註一)

残花の詩人観の底に流れる想いには、この時代に特有な「敗残者」の影が長く伸びている。後述するように植村正久には早くにそれが顕れていた。彼が唱える「詩人」とは、言ってみれば、この「影」の代名詞であった。単なる影ではない。哲学的な存在の影であった。そういう意味でも、同じキリスト教徒であった藤村にあっては、すでに詩的感傷でしかなくなっている。言い換えれば、存在の代名詞ではなくなっている。

 

(註一)   戸川残花(一八五五‐一九二四)は、父を幕臣に持つ幕末動乱の敗残組みに属し、自身も動乱期に深くかかわる。江戸築地の屋敷は、接収後に大隈重信邸(「築地の梁山泊」)となる。旧邸の向かい側に設立された一致派教会で洗礼を受ける(明治七年)。巡回伝道師(明治一六年)後に牧司(明治二二)。『日本評論』(植村正久主宰)へ多くの作品を寄稿。『文学界』客員格により透谷を知る。明治三〇年雑誌『旧幕府』創刊、編集。明治三二年『幕末小史』三巻完結。晩年は紀州徳川家南葵文庫主任。以上は、主に『明治文學全集六〇』「明治詩人集(一)」の「年譜」による。

 

戸川残花の演説振小野田亮正『現代名士の演説振』、博文館、1908年。

 

壱 はじめ(いちはじめ)1950年生まれ。詩論集「北に在る詩人達」、音楽論「バッハの音を「知る」ために」など。ブログ:http://ichihajime2012.blogspot.jp/  ツイッター:https://twitter.com/hawatana1

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