詩篇一読 一読して明らかな如く、詩行布置における頭出しの変化付けを含め放逸である。「出放題」は、まさに「言いたい放題」の謂いであるが、単なる放言に恣意的なわけではなく、自己制約をしっかりと課している。とりわけ詩行の整え方である。並びの二行の長さを揃え、左下がりの斜傾化を基本に全体にウエィブを利かしているのである。

これは一義的には視覚上の問題ながら、聴覚上もそれがつくるリフレイン的な畳み掛けによって、全体に亘る引き締まった響きを聞かせることになる。詩行の均整化は、七五調をはじめとした創成期の韻文詩行がつくる特徴であるが、梅花が他と異なるところは、必要に応じて異なる韻律を繰り出しながら、予定調和に対して回避的な言い回しに腐心しているところ、むしろ韻文的発声の柵を打ち破っているところである。変調に効果的な措辞・修辞の工夫も秀逸である。経歴に追記すれば、「諧謔諷刺を専らとした一種風變わりな文人である」任天居士田島象二なる人物に若年時師事していたようである(本間一九五一)。影響があったのかもしれない。

まことに個性的な声音である。ある意味躁状態下にある詩行化の敢行であり、梅花の個人的気質を窺わせないでもないが、気質を超えて詩に高められているのは、声音の核に、存在に対する悲哀感めいた感情を内包しているからである。躁とは背中合わせにある内心の在り様であるが、鬱に裏返って抒情化するメランコリックなものではない。悲哀感がかりに鬱屈状態に傾いだ場合でも、そこに湧きあがるのは、虚無的な魂を抱え込んだ諧謔的詩精神である。一部を示してみよう。「出放題」の、上掲部分に続く最終詩行群である。

 

 見來れバ、我身世に出でゝ、

 白絲の有無をだに知らぬ、

 えぞ知らぬ、まだ幼頃より、

   今ハ頭に霜ふりて、

    アハゝ、アッ、ハッ、ハ、

    まだ霜などハ降らねども、

    四五千年の今日が日まで、

   石ハ石、花ハ花、竹ハ竹、

   花が石にも咲きハせじ、

   竹が花にもなりハせじ、

    わからぬものゝ詮索を、

    分からぬものに爲るとハ、

   アハゝ、アッ、ハッ、ハ、

    唯笑へ、笑ふて遊べ、

          世の中ハ、

    唯現在の今日の外、

 明日も明後日も無きものを、

  止れや蝶々、菜の葉へ止れ、

       菜の葉があいたら、

  よしの先きへ止れ、

   止まるところを忘れなバ、

 猫に追ハれし蝶々の、

  荘子ハ夢にうなされやせん、

 

抒情性を知らない言葉遣いが、新体詩に新しい韻律を獲得する。表面的には諧謔的な言葉遊びに見えながらも、読む言葉だけではなく響かせる言葉として、聴覚を試されながら聴き取る時、響きに重なる響きがつくる成層のさなかには、さらに耳もとに止まる感覚的な調べを超えた、存在感を包みこむような厭世的な調べが、言葉の質的高さをもとの用字用語から詩語に斬新に読み替えさせて、作者の存在を読む者の傍らに実感させるに至る。

詩を読むとは、小説とは違って作者を実体的に感じる面が強い。同じ言語行為であっても、詩作行為が必然とするものによるのか、とりわけ、顔の見えない創成期詩人への関心が強く誘発される。

 

壱 はじめ(いちはじめ)1950年生まれ。詩論集「北に在る詩人達」、音楽論「バッハの音を「知る」ために」など。ブログ:http://ichihajime2012.blogspot.jp/  ツイッター:https://twitter.com/hawatana1

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