詩人のプロフィール 伝記上不明な点が多いが、北村透谷との比較などで詩史的価値が高まって以来(平岡一九六七)、近年の新日本古典文学大系明治編の『新体詩 聖書 讃美歌集』(岩波書店二〇〇一)では、取上げられた七篇の内の一篇として、「新体詩歌」や「十二の石塚」「孝女白菊の歌」ほかと並んで、まさに「新古典」の一詩集の扱いを受けるまでに至っている。それでも近代詩に精通した愛読者を除けば、ひろく知られた詩人ではない。それもそのはずで、同時代的に見ても、「没後一〇年」から早くに埋もれた存在と化してしまう。中西梅花研究者の評伝(大井田二〇〇六)に引かれた同時代誌の一節を引けば、次のとおりである。

 

近頃の某雑誌に、明治の薄幸文士として、北村透谷、原抱一、齋藤緑雨、平尾不孤の四文士が数へられてあつた。成程此れ等の人は悲惨の運命に生涯を終わつた薄幸文士に相違はないが、新時代の初期に、新体詩人として一部に知られてゐた中西梅花の名を欠いたのは、余は甚だ残念に堪へぬ。原抱一と殆ど運命を同うして、然かも文芸雑誌にだも其の名を忘れられたのは、更に一層の悲惨で有らう。

(横山源之助『文章世界』第一巻第八号、明治三九年(一九〇六))。

 

引用文の「原抱一と殆ど運命を同うして」とは狂死のことである(原抱一(原抱一庵、小説家・翻訳家)は精神病院にて死去)。詩集刊行の同じ年の明治二四年に発狂して入院。明治三一年(一八九八)九月三日、精神に異常をきたしたまま没したという。時に三三歳。

簡単に年譜を辿れば(本間一九五一、大井田二〇〇六)、慶応二年(一八六六)江戸の千住の生まれ。父は川越藩士。幼少年期の生活状況は不明。文芸活動の最初は、読売新聞入社(明治二二年(一八八九))を契機とする一連の小説。小説執筆は、自社紙上を飾るための仕事でもある。読売新聞時代としては、ほかに浮世絵師の評伝執筆もある。

矢継ぎ早の作品発表によって、一時は紅葉や露伴と並んで持て囃されるほどに才能を買われたが、一年半後には、同新聞社を退社(明治二三年五月)。小説から詩に転向。同年、出京して美濃は虎渓山の臨済宗の古刹永保寺に参籠。同寺にて詩作に没頭(代表作「九十九の嫗」の作詩)。

かくして翌二四年、「梅花道人昨秋飄然京を出て美濃尾張の野に彷徨し遂に虎谿の精舎に寓すること數旬乃ち帰りて梅花詩集を印行す」(『新体梅花詩集』「序」(森田思軒))に及ぶ。しかし、同詩集にてほぼ詩作の筆を擱き(最後の詩篇は刊行後の八月)、再び小説に打ち込むが(経済的理由)、かつての勢いはなく、発狂入院後は、精神病院の出入りを繰り返しながら、終に明治三一年死去。島崎藤村『若菜集』刊行(明治三〇年)の翌年である。日本近代詩の推移を思うと、いかにも象徴的な死である。

なお、唯一の詩集『新体梅花詩集』は、最初の個人詩集であったが(註一)、次の島崎藤村の回想から見ても詩史上特記されるべきことであるとともに、詩集発刊の敢行には梅花の個人性に与るところが察知される。藤村は言う。「それまでに新体詩集といふものも出ましたが、本としては大抵は、小型のもので、内容もいくたりかの人が持寄つて作つたものでした。私は詩の独立といふことから言つても、そんなにまで遠慮をする必要はないと考へまして、それで私の『若菜集』は詩集としての大きさも四六版の形で、自分だけの書いたものを集めて出しました。ところが、単独で詩集を出すのはすこし出すぎた仕打だ、生意気だといふ声が聴えたほど、当時の詩壇は狭く、その位置も低いものでした」(「『若菜集』時代」大正一四年)と。

 

 

(註一) 個人詩集としては湯浅半月の『十二の石塚』が最初ながら、一篇からなる詩集(一篇詩集)である。

 

 

壱 はじめ(いちはじめ)1950年生まれ。詩論集「北に在る詩人達」、音楽論「バッハの音を「知る」ために」など。ブログ:http://ichihajime2012.blogspot.jp/  ツイッター:https://twitter.com/hawatana1

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