おわりに~結束としての「声」~

 

以上は詩論ではない。よく言って詩史である。厳密には詩史でもない。記述の問題である。詩史体になっていないからである。もちろん詩論体にもなっていない。それでも雑考にまで落とされないで済むとすれば、「雑記体」からでも抽き出せるものがないわけではないからである。詩人像である。厳密には透谷や梅花で止まったそれである。加えて両者に至る間のそれである。

 

「声」の詩史    惜しむのは「声」である。「声」の詩史が途絶えてしまったことである。この場合、「声」とは詩学と一体のものである。詩学としての「声」が途絶えてしまったのである。詩人像に帰れば、「声」を失った詩人の佇まいとなる。

たとえば、植村正久によってはじめての詩人とされた湯浅半月の「十二の石塚」を振り返れば、作詩の動機は「卒業演説」にあった。今でいえば卒業論文である。学びの総仕上げとして教師や生徒の前で演説をうつのである。それを半月は自作の詩の朗読で行なったのである。漢詩の朗吟ならぬ新体詩の朗詠である。

 

和歌の浦の磯先こゆる

志ら浪のしらぬむかしを

松陰の眞砂にふして

もとむともかひやなからん

玉津島姫

久かたの天つみそのに

むれ遊ぶ聖靈の鳩の

錦翼にのらしめたまへ

我神よいざ行て見む

ユダヤの國原  (湯浅半月「十二の石塚」「一囘 緒言」)

 

全体では七百行(全五囘)にも及ぶ、旧約聖書に取材した叙事詩である。後に平家琵琶の免許を採ったほどの美声であったという。「読み終えるまでにはゆうに三〇分はかかった」この「卒業演説」に「教師も生徒も驚かされたに違いない」し、またその美声に「会衆が酔わぬわけはない」と記されるが(鈴木一九六九、五五‐六頁)、然もありなんの詩行の連なりである。

湯浅半月の「声」が、洗礼詩人のそれであるとすれば、壮士詩人の外山正一の「声」は、「口演」のそれである。外山にあっては詩学を形成するほどである。「予が斯くの如き身躰を用ふるは他の故あるにあらず。予の詩想予の感情を。感情的に語らん爲の方便と爲すものなり」と趣意を述べ、「人はいざ知らず。少なくとも予は。七五或は五七の調を變化なく使用するを以て。感情的口演の方便に合ひたるものと爲さず」(句読点は原文のママ。次の引用も同じ)として次に決意の程を述べる。

 

予の新體詩に彼此批評を加へむとする者は。予の如何に之を口演するかを先ず預め知るを要す。「畫題」「忘れがたみ」「弔辞」「可兒大尉」「我は喇叭手なり」等は既に口演せしことある者なり。其の折々に。清聽を賜はりし人々の。眞面目なる批評を蒙らむ事は。予の切に願ふ所なり。最も價値ある批評と思へばなり。(外山正一「新躰詩」)(筑摩書房版大系第一巻)

 

明治一五年の『新体詩抄』から見ると、一定時間の流れた後の明治二八年の『新体詩歌集』の序文を飾るものであるが、思いの根底には、「鳴方」に拘る『新体詩抄』序文の詩学がある。「最も價値ある批評」とあえて断るのは、詩学が『詩抄』から確定的にまで昇華していたことを物語る。時代は叙情詩に向け舵を切っていた頃である。

外山正一が自作に使うのは、「朗讀體」ないし「口演體新體詩」であるが、まさに壮士詩人たる相応しい命名である。しかし世間の反応は芳しくない。同じ詩集のなかでさえ「わが國太古の壽詞、近古の謡曲のたぐひ」と、情けなくも同列下の序文(阪正臣)のなかで格下げ気味に解されてしまう。

 

 

「内声」の口演 企図はかく同時代的には空振りに終わってしまうが、おそらく当人にも察知されていなかった詩学が、「朗讀體」ないし「口演體新體詩」には潜んでいたはずである。それはなにか。詩想が外ではなく、ひたすら内に向かった時に生ずる激情である。「口演」を内声に変ずる詩学である。新体詩の賞賛されるべき点の一つを挙げれば、その遺伝子を引き継いだ透谷を生み、梅花を育てたことである。内声の始発点として認識するかぎり、新体詩の彼等はやはり「正統」である。

その意味合いからも『新体詩抄』を、それがつくる音調の可能性だけで読みこまなければならないが、今は透谷を読み、梅花を味わうなかに、そして透谷と梅花の二人の声(内声)の違いを知るなかに、回帰的に始原への思いを新たにするだけでよいだろう。

それにしても外山正一は、さらに存命であったとしても(明治三三年死去)、永遠に詩人にはなれなかった。それが「口演」の宿命だった。「口演」が内声ではなかったからである。したがって課題は、「内声」を口演することだった。縊死した透谷も狂死した梅花も自分ではよくなしえなかった。次作を生みだせなかったからである。「遺伝子」は、彼等の免疫力を衰弱させる方向に予想外に増殖したのである。それでもなすべきだった。実演如何を言うのではない。その精神(口演精神)が、あらたな詩を生み出す内声を再生し続けるからだった。

しかし、詩史は止まった。彼等亡き後、すでに「声」は「調べ」に姿を変え、詩は余韻に酔う時代を生きようと、したり顔に待ち構えていたのである。

 

 

引用・参考文献

赤塚行雄『『新体詩抄』前後――明治の詩歌』學藝書林、一九九一年

阿毛久芳ほか校注『新日本古典文学大系明治編一二  新体詩 聖書 讃美歌集』

岩波書店、二〇〇一年

鮎川信夫・吉本隆明・大岡信『討議近代詩史』思潮社、一九七六年

伊藤整・伊藤信吉編『日本詩人全集1 島崎藤村』新潮社、一九六七年

大井田義彰『《文学青年》の誕生――評伝・中西梅花』七月堂、二〇〇六年

大岡信「日本近代詩の流れ――詩論の展開」(『詩の本第一巻   詩の原理』筑摩 書房、一九六七年)

勝浦晴希「維新期の詩歌」(『岩波講座  日本文学史』第一一巻、岩波書店、一九九六年)

北原白秋「明治大正詩史概観」(『北原白秋全集』二一、岩波書店、一九八六 年)

鈴木亨「明治詩史」(『現代詩鑑賞講座 明治・大正・昭和詩史』第一二巻、角川書店、一九六九年)

筑摩書房『明治文學全集五三 正岡子規集』、一九七五年

筑摩書房『明治文學全集六〇 明治詩人集(一)』一九七二年

筑摩書房『現代日本文学大系五 北村透谷・山路愛山集』一九六九年

越智治雄『近代文学成立期の研究』岩波書店、一九八四年

中村幸彦校注『日本古典文学大系九四 近世文學論集』岩波書店、一九六六年

野山嘉正『日本近代詩歌史』東京大学出版会、一九八五年

本間久雄「中西梅花」(同著『明治文學作家論』早稲田大學出版部、一九五一年)

日夏耿之介編『日本現代詩大系』第二巻、河出書房、一九五〇年

日夏耿之介『改訂増補明治大正詩史(巻之上)』創元社、一九四八年

揖斐高「漢詩の隆盛」(『岩波講座 日本文学史』第一〇巻、岩波書店、一九九六年)

平岡敏夫「透谷と中西梅花」「中西梅花の小説」(同著『北村透谷研究』有精堂出版、一九六七年

柳田泉・勝本清一郎・猪野謙二編『座談会明治文学史』岩波書店、一九六一年

矢野峰人「創始期の新體詩――『新體詩抄』から『抒詩』まで――」(『明治文學全集六〇』筑摩書房、一九七二年)

山宮允編『日本現代詩大系』第一巻、河出書房、一九五〇年

吉田精一「明治大正訳詩集解説」(『日本近代文学大系五二  明治大正譯詩集』角川書店、一九七一年)

 

壱 はじめ(いちはじめ)1950年生まれ。詩論集「北に在る詩人達」、音楽論「バッハの音を「知る」ために」など。ブログ:http://ichihajime2012.blogspot.jp/  ツイッター:https://twitter.com/hawatana1

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