梅花と透谷  その代わりではないが、梅花と透谷との違い――両者による「乞食」との一体化の違いを見て後日の参考としておきたい。掲げる詩は梅花の代表作「九十九の嫗」の一節(「其六」)である。

 

恥かしや、我、

 今ハ乞食とおちぶれて、

御手洗の、

 古き手拭をつゞくりて、

  垢に染めたるいろいろ衣、

 菅の小笠もあめに洒落、

  骨のみたかく、肉こけて、

 齒なみも斯くハ、

    まばらにくづれ、

  かしらにハ雪、

     まゆにハ霜、

 まなこハ煙霞にとざされて、

 髪の毛つくもにむすぼうれ、

  膝ハよはくて、

    腰くねり、

 一日に一里もむづかしき、

  鬼のひぼしのからびうば、

 むかし思へバ皺みたる、

  背にも汗の、

     はずかしや」

 

主家の衰退により零落を余儀なくされた嫗の落魄の旅路(乞食の彷徨い)を一一節に亘って詠じたものである。一部を示しただけでは深く説き難い。それに透谷のそれ(会津武士主従の落魄)は散文である。最初から対比上無理があるが、ここにあるのは同じ「情」でも「無限の情」ではなく「有限の情」である。透谷なら「今ハ乞食とおちぶれたりと云えど」として詩行を連ねる。以下詩行は同じでも、冒頭の一行の立て方の違いによって、意味はいきおい順接から逆説に転換する。身のはずかしさを強調すればするほど却ってその先の自己昇華へと気分は高まり続ける。透谷の絶対化である。

しかし梅花にあっては、その響きを響き以上にしない。自らを反響板としない。しても床板である。壁にも天井にもならない。あるいは舞台裏にいて舞台上の役者を見守るだけである。手っ取り早く梅花の言を引けば、「地の文無にて」(註一)である。「地の文」とは、まさに作者たる権利(発議の権利)を有する自分である。一切無いことが、その逆説として諧謔調を含めて引き締まった饒舌体を可能にするのである。その上でさらに自己実現に向き合うその内面には、それをいかに可視化するかを含めて、単なる「近代の苦」では量り難い、時代を超えた詩的覚醒感がある。その覚醒感は、透谷を巻き込んで両者の並び立ち方を考えるとき、新体詩の枠をはるかに超える。その意味でも創成期の叙事詩(エピック)は再考されなければならない(註二)。

 

(註一)その前後は次のとおりである。「さて例の常盤の嫗、小生、束藻の嫗と題を改め、草稿を破る事三回。或ひは趣向を立てゝ見、或ひは一寸ヤマ氣の場あたりを出して見、或ひは賦體を用い、記事にも叙事にも、あえたりもんだり、いろいろ苦しんだ結果が、萬里一條、銑著者の言語を一字も加えず、即ち地の文無にて、殆んど常盤の嫗より一二枚多く(略)認め終り申候」(上記本間より)。

(註二)この点については、「叙事詩の時代の影を追うことが、わが文学における近代の質の把握につながることも、また明らかなはずである」と結ぶ、越智治雄『近代文学成立期の研究』に収載された「叙事詩の時代」に詳しい。

 

壱 はじめ(いちはじめ)1950年生まれ。詩論集「北に在る詩人達」、音楽論「バッハの音を「知る」ために」など。ブログ:http://ichihajime2012.blogspot.jp/  ツイッター:https://twitter.com/hawatana1

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