誌の雑誌 midnightpress 28
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2005年 夏 28号(2005年6月5日発売)



【主な内容 】

●詩作品 鈴木志郎康 秋山基夫 小長谷清実 安水稔和 川田絢音 河津聖恵 四元康祐 松尾真由美 平居 謙 笹原玉子 原口哲也 元山 舞 阿部裕一 田中エリス 
●連詩 「嘆きのとき」FARM
●大座談会 「いまを生きる——瞬間の正しさ」
中村剛彦 久谷 雉 小林レント 田中エリス 
●poetic dialogue瀬尾育生×稲川方人「詩のアクチュアリティ」
●連載対談24 谷川俊太郎+正津勉 ゲスト/松本亮
「ワヤン、そして金子光晴」

●詩の教室 高校生クラス・清水哲男 一般クラス・松下育男
●連載  井上輝夫 井坂洋子 ハルノ宵子 高取 英 佐々木安美 マツザキヨシユキ 八木幹夫 松岡祥男  根石吉久 

■表紙タイトル文字/谷川俊太郎
■表紙「鳥と人」・目次・本文イラスト/永畑風人
■表紙・目次デザイン/片山裕
■写真 野口賢一郎




かねてより、若い詩人たちによる座談会を開きたいと考えていたが、今号でそれを実現することができた。季刊ということを生かした誌面づくりを試行しているが、これからもさらに展開していきたい。■『いまを生きる——瞬間の正しさ』では、あらためて、「いま」が浮上してきた。話者それぞれの「いま」を超えて、読む者の「いま」が問われていることを知らされるだろう。■『言葉と世界——詩のアクチュアリティ』では、詩の読み方、詩を読むことについて考えさせられた。詩は、書いたから、詩となるのではない。詩は、読まれて、詩となるのである。読む者がいなければ——正しく読む者がいなければ——、一篇の詩は、詩という出来事は生まれないことに、あらためて思いをいたしたい。■谷川・正津両氏の対談のゲストとしてお迎えした松本亮氏は、小誌で「素顔の金子光晴」を連載されたが、今回は、「日本ワヤン協会」の主宰者である松本さんにお話を伺った。松本さんの的確な語りによって、ワヤンのこと、ジャワのこと、インドネシアのこと……が了解されていく時間は貴重なものだった。われわれは、どこから来て、どこへ行くのか、あらためて考えたものである。■……と、なにやら、先ほどからやたらと「あらためて」を連発しているが、理由がないわけではない。三本の話を通して立ち現われてきたものは、持続するもの(たち)、持続するものとしての詩であった。それは、「去年今年つらぬく棒の如きもの」だろうか。ただ、持続するものだけが開展、前進していくのだろう。■以下、お知らせをいくつか。小誌で連載されていた飯島耕一氏の小説『白紵歌』、25年ぶりの井上輝夫氏の新詩集『冬 ふみわけて』が、まもなく刊行される。いずれも力作で読む愉しみを味わわせてくれる。ご期待ください(新刊については巻末の広告を)。なお、松本亮氏の『素顔の金子光晴』は来年の刊行を予定している。そして、昨年刊行された岩木誠一郎氏の『あなたが迷いこんでゆく街』が北海道詩人協会賞を受賞した。岩木さん、おめでとうございます。また、前号からマツザキヨシユキさんの、今号から佐々木安美さんの連載が始まり、今号で井坂洋子さんの連載が終了した。井坂さん、ありがとうございました。(お)


詩作品のなかから


極私的ラディカリズム
鈴木志郎康


70年、生きてきちゃった。
もうあと10年、そこがいいとこかな。

で、極私的ラディカリズム
ってことを考えた。

わたしという存在の根元は、
身体にあるっていうことですね。

わたしが自分の身体と付き合っている間は、
わたしでいられる。

毎日、体操もしてますけど、
肝心なのは、やはり言葉だ。
身体のカオスから出てくる言葉。
言うってことです。または書くこと。
小さなことをいう。また小さなことを書く。

身体が占める空間は、
小さい。
その小さい大きさが、
いいなあ、っていう

気楽なラディカリズム、
極私的ラディカリズム。

最近はカボチャを煮てます。
牛蒡と一緒に。
とろりっとして、ごりざくっ。
これが気に入って、
時にはグリンピースも入れる。

煮掛かったところで、
気を逸らして焦がしてしまったこと数回。

焦げ鍋の底を洗う。
がりがりと洗う。

がりがりの、
極私的ラディカリズム。

手元、がりがりの、
極私的ラディカリズム。