誌の雑誌 midnightpress 25
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2004年秋 25号(2004年9月5日発売)

【主な内容 】
●詩作品 渡邊十絲子 竹内敏喜 元山舞 瀬尾育生 駿河昌樹 有松裕子 今井義行 夏目美知子 久保寺亨 木島始
●連載詩 三上寛 
●連載対談21 谷川俊太郎+正津勉 ゲスト/久谷雉「拡散を生きる」
●poetic dialogue瀬尾育生×稲川方人「詩人と人称」
●森岡正博 詩と哲学のはざまを往くことば
●critic 2004 須永紀子 生命のよろこびということ
●平居謙の「ごきげんPOEMに会いたい」 しげかねとおるの巻+萩原健次郎
●詩の教室 高校生クラス 清水哲男 一般クラス 川崎洋
●連載など執筆者  大澤恒保  高取英 ハルノ宵子 松岡祥男  根石吉久 八木幹夫  井坂洋子 井上輝夫 飯島耕一 田中エリス 阿部裕一
 
■表紙タイトル文字/谷川俊太郎
■表紙「ガドルフの百合」・目次・本文イラスト/永畑風人
■写真 野口賢一郎



いつものバーでグラッパを飲んでいると、「君の編集後記はいつも同じことばかり書いているな」とMが言う。言われて思いあたることというものがあるが、なるほど、これこそ「永遠回帰」じゃないかと思った。■理由がないわけではない。いつも、すべての作業を終えた後、この後記を書くのだが、そのとき相対するのは、前号を刊行してから過ぎ去った三カ月という時間、そして今号に掲載されたすべての原稿以外にない。それらと向かい合うこと(だけ)が、とりあえず、いまの自分にとっての「詩の現在」である。すると、不思議なことに、と言うべきだろうか、掲載された様々な原稿の向こうからいつも、その号ごとに、共通主題のようなものがいくつか立ち現われてくるのである。■今号の場合でいえば、そのひとつとして、「意味」が、「意味」というコトバが、あちこちで見え隠れしているように思われた。そこから自分なりに考えてみた。すなわち、意味から離陸するものが詩であり、意味へと着陸するものが哲学ではないか、と。もとより截然と分けられるものではないが、いまはこう考えてみた(い)ということだ。すると、この「意味」をイコール「生」と短絡することは十分に注意しなければならないが、この詩の運動と、この哲学の運動とが、円を描くように繰り返し交替される像がイメージされる。そのとき、人間が、歴史が、そしてなによりも詩が見えてきたとしても、なんの不思議もないだろう。気がつくと、いつも創刊の場所に立ち返っているのである。■思えば、その主題と変奏の繰り返しにほかならないのかもしれない。なるほど、「永遠回帰」という考え方は魅力的だが、その「永遠」というコトバの「意味」が微妙に、しかし決定的にズレつつあるいま、変奏の方法が問われていることを知るのである。■校了の直前に、木島始氏が亡くなったことを知る。この号をお手元にお届けできなくなったことが残念である。ご冥福をお祈り申し上げます。(岡田)


詩作品のなかから


犬の眼
渡邊十絲子


ふと気づけば
あしもとにからだをよせて
しずかに息をしている。
もうとっくに死んでしまったのに。
椅子にかけて
だらりと垂らした手のさきを
鼻でつついて撫でろと催促をする。

鞠という名。
鞠を投げてやったことは生涯に絶えてない。

犬のからだで生まれた。
だからいちども
ことばを交わしたことがなかった。
おなじ色も見ない
おなじ時もながれない。

不意に耳をたてて闇を凝視していた。
犬笛にたましいをよばれている。

わたしに見えない鞠がおまえに飛んでくる
その音もわたしには聴こえない
ただかりそめの犬のからだが呼吸をはやめ
なにかにそなえて立ちあがろうとしているのが見えるだけだ。

この世でわかちあったものはなにひとつなく
互いをつなぎとめるなにものも
ない
それなのにたびたび彼岸からかえってきて
まだ犬の姿で
あしもとによりそう
撫でようにも
もう背骨すらない
どこにおいてきてしまったのか。

こうなってなお
ことばがつうじない
犬の眼は犬のなみだに濡れて
かたちのないわたしがそこに映る。
これが犬のかなしみでありこれがにんげんのかなしみでありこれが異種のたましいを
  玩具にしてきたことのおわらない罰である。鞠だ。
誰かの手がわたしに向けてきびしい鞠を投げつづけている。