夏の終わり――トムとハックの冒険の先へ――

 

夏が終わろうとしています。まだ残暑は厳しいですが、夜になると秋の虫たちが音を鳴らして、寝苦しかった真夏とは違い、心地よい眠りに落ちることができます。

思い出すと子供のころは夏休みが終わるとわたしは憂鬱になっていました。友だちと再会できるのは楽しみではありましたが、1ヶ月以上学校に通わずに、好きな時間に好きな本を読んだり、近くの山をひとり探検したり、大好きな友達と海に潜ったりと、子供ながらに満喫した自由を2学期に入って奪われることが嫌で仕方なかった。

わたしの子供時代にくらべ、いまの子供たちは忙しそうです。塾へ通ったり、習い事をしたり、また夏休みの大量の宿題をこなすのに必死です。わたしのころは、夏休みの宿題などほったらかしていても平気だった。

でもきっといまも昔も子供にとって夏はどこか「解放の季節」であって、思春期や青春期になれば恋愛ごとも生まれ、詩の種がいっぱい散らばっていると思います。たとえばこんな些細な詩が生まれる。

 

Warm summer sun,

    Shine kindly here,

Warm southern wind,

    Blow softly here.

Green sod above,

    Lie light, lie light.

Good night, dear heart,

    Good night, good night.

 

アメリカの大作家マーク・トウェインの夏の詩「Warm summer sun(暖かな夏の陽)」です。訳してみますと、

 

暖かな夏の陽は

 ここにそっと輝き、

暖かな南風は、

 ここにやわらかく吹く。

みどりの芝生につつまれて、

 ふわり、ふわり。

おやすみ、愛しい人、

 おやすみ、おやすみ。

 

この詩は短く平易であるにもかかわらず、誰もが共有できる夏の解放感や純粋な恋心が伝わってきます。さすがです。マーク・トウェインといえば、あの『トム・ソーヤの冒険』や『ハックルベリー・フィンの冒険』といった少年文学によって、アメリカ文学の源泉ともいわれます。わたしは子供のころアニメ化された「トム・ソーヤの冒険」が大好きでした。わんぱくのトム少年が、学校を抜け枝して、木の上の小屋に住むハック(原作では町外れにある大樽に住んでいる)とともに冒険を繰り広げる日々は、学校教育にしばられた子供たちにとっては憧れのストーリーです。

しかしよく知られた通り、マーク・トウェインは単に子供用のファンタジーを作ったのではありません。いやすべてのすぐれたファンタジーがそうであるように、マーク・トウェインはその作品のなかに強烈な社会風刺と、今日もわたしたちを悩ませつづけている永遠のテーマを込めています。

それは「自由」とは何か、です。

ご存知の方も多いのでストーリーの詳細は省きますが、舞台は19世紀半ばのアメリカ中西部のミズーリ州ミシシッピー川に面したのどかな港町です。南北戦争前夜、まだ牧歌的なフロンティアの名残が色濃いヨーロッパ移民が支配するこの町で、中産階級の白人の子トムは、大人が子供をしばりつける窮屈な社会秩序からの脱出を図り「自由」をもとめて冒険にでます。

その「自由」への架け橋役が、家なき子のハックです。ハックは貧乏白人(プア・ホワイト)という当時のアメリカでは黒人よりもさらに蔑まされていた最下層の子です。よってはじめから社会秩序の外にいてトムにとっては憧れの「自由人」です。トムは彼との友情を深めながら、「自由」への脱走を何度も試みます。

 

 

 

しかしトムにとっての「自由」への冒険はいっときの遊びにすぎません。夜中に窓から抜け出してハックと落ち合っても、朝には部屋にこっそり戻ります。まるで夢のなかだけ「自由」でいようとする。大人たちに怒られながらも、トムはけっして衣食住に満たされた生活を手放さない。社会秩序のなかに完全に組み込まれています。

トムとハックの間にあるこの「自由/不自由」の溝は、その友情の捉え方によく現れています。ハックにとってはトムとの友情は唯一の社会とのつながりであるだけでなく、自らの唯一の存在の根拠である「自由」を証明してくれるものです。だからその友情を心から大切にしています。逆にトムにとっては、ハックという存在はひとときの「自由」への冒険のための利用物にすぎません。よく読むとトムの「自由」は、社会秩序がもつ権威主義に裏打ちされています。海賊ごっこにしろ、ロビン・フッドごっこにしろ、その冒険はいつも大人がこしらえた有名な物語の主人公になることが目的です。トムは主人公の自分を引き立てるための存在としてハックを利用し、自らが権威者になることを「自由」と勘違いしている。つまり本当は「不自由」を愛しているのであって、ハックという「自由」の存在を抑圧することではじめて快感を得ているのです。

このようなことを書くとトムは悪人のようですが、けっしてそうではありません。トムはわたしたち社会秩序の枠内で生きる者すべての代弁者であります。わたしたちも子供の頃、アニメや漫画の主人公になりたかったことが一度ならずあります。わたしたちはみな子供の頃にすでに権威を刷り込まされているのです。マーク・トウェインの偉大さはこの点をけっしてごまかさないことです。だからこそ、この物語は多くの者に読まれる古典となったのです。

 

物語の最後はよく知られています。ハックはトムの親戚のお金持ちの未亡人に養子にもらわれます。そこでは履いたことのない靴を履かされ、綺麗な服を着せられ、学校にも教会にも通わされます。ハックは耐えられずすぐに脱出を試みますが、トムの手によって引き戻されます。ハックはトムに訴えます。

 

「なんかもう何年も経った気がするぜ。教会にも行かなくちゃなんねえし、もうだらだらだらだら汗が出て――あの説教ってのも我慢ならねえ! 教会じゃ蝿も捕まえちゃいけねえ、煙草も嚙んじゃいけねえ、日曜日一日靴をはいてないといけねえ。未亡人ときたら鐘に合わせて飯食って、鐘に合わせて寝床に入って、鐘に合わせて起きる――何もかもものすごく規則正しくて、我慢できねえよ」

「だってハック、みんなそうやってるんだぜ」

「そんなの関係ねえよ。俺は『みんな』じゃない、あんなのがまんできねえんだよ。(以下略)」

(『トム・ソーヤーの冒険』柴田元幸訳、新潮文庫)

 

その後一度ハックは脱出をしますが、けっきょくトムが考案した「トム・ソーヤ盗賊団」という、またもや自分が主人公となる物語にハックを誘い込み、いつか大人たちが自分たちにひれ伏すことになるとでっち上げて、ハックを秩序内へ引き戻して終わります。

やや『トム・ソーヤーの冒険』について長く書いたので、続編の『ハックルベリー・フィンの冒険』についてはポイントだけ書いておきたく思います。

続編ではハックはまたしても未亡人の家を抜け出し、トムの家で雇われていた奴隷の黒人と「自由」への逃走の旅に出ます。しかしアメリカのどこにも「ほんとうの自由」はありません。ハックはついに「地獄行き」を決意します。しかし「地獄」もまたこの世にはありません。文字通り取るなら、それは「死」以外のなにものでもありません。ここでハックは自殺をしようとしているのでしょうか。いやそうではありません。ハックは本気で生きながら「地獄」を目指そうとします。いったいこのハックの「地獄」とはなんでしょう。多くの文学者や研究者がここにこそアメリカ文学の源泉をみます。

 

 

 

実はその後の展開をみると、このハックの「地獄行き」ですら、すべてトムが仕掛けた物語の筋書きを追っているすぎなかったことが判明します。ハックはけっきょくどこにも行っていないのです。最後まで「自由」への逃走を夢見ながら、すべては「不自由なアメリカ」に絡め取られてしまっている……。

この二つの物語に、マーク・トウェインの恐ろしいほどのリアリズム、といいますか、シニシズムが伺えます。「自由」などどこにもないのです。トム・ソーヤーという物語の「英雄」こそは「自由の国アメリカ」の権威の象徴です。そしてハックは物語から常に逃れようとして逃れられない大衆の象徴です。トウェインは決定論として、アメリカの「自由」、いや世界の「自由」が、いつまでも鼠が同じところを走る回転かごの「からくり」であることをここで暴露しているといえます。これこそハックのいう「地獄」以外のなにものでもありません。ではトウェインの冷徹なシニシズムはなぜ今日までこれほどまでに人気を博してきたのでしょうか。

 

                 マーク・トウェイン

ここで冒頭の詩「暖かな夏の陽」にもどりましょう。あのような爽やかな夏の詩もまた、マーク・トウェインならではの逆説的なものです。実はあの詩は24歳という若さで死んだ最愛の娘の墓に刻むために書かれています。書かれたというより引用です。オリジナルはロバート・リチャードソンというオーストラリアの詩人の詩で、その一部分を変えています。わたしが「ふわり、ふわり」と訳した「lie light, lie light」はロバートの詩では「rest light, rest light」、つまり「安らかに、安らかに」です。もしかしたら「lie light」も英語では「安らかに」が直訳として良いのかもしれませんが、トムとハックの生みの親トウェインの軽やかな筆致さの逆説性を汲んで「ふわり、ふわり」と試訳してみました。

そうなのです。トウェインの筆致表向きは子供の無邪気な「夢と希望」に満ちた冒険譚を生き生きと描いた筆致を支えたのが、実のところ「夢も希望もない」冷徹な現実認識であったことと同様、この詩の軽やかな夏の爽やかさを支えているのもまた、最愛の者の「死」という悲劇性であること、この二元論ともいえる作品の表裏構造の「からくり」こそが、マーク・トウェイン文学の人気の元です。トウェインはそれを手品師のようにやってみせます。そして子供たちはこの世界の「からくり」を知って楽しむのです。なぜなら子供であることがすでに悲劇性を孕んでいることを子供たちは日々逃れられない「不自由」への成長のなかで嫌というほど味わっているからです。だから親が泣く子をあやすような目先の偽善的な言葉は子供たちには通じません。

もちろん子供たちは日々夢や希望を抱いています。しかしそれはもしかしたら大人たちが(私たちが)そうあってほしいと子供たちに刷り込んだ「夢や希望」かもしれません。「すべての国が平和な世界」「すべての人々が平等な世界」「すべての人々が「自由」な世界」……、大人のわたしたちさえも知らない、ありもしない「夢や希望」です。

前回取り上げた「ハーメルンの笛吹き男」もそうでした。国家、社会の柵から逃れて、本当に「自由」をもとめるならば、この世から消えるしかない。しかしそれはできない。そのがんじがらめの「地獄」のなかの生存を、詩はいかに照らすことができるのか、マーク・トウェインから学ぶことはいまだに巨大だと思いますし、この連載「Poem for Children (子供のための詩)」はそれを問いつづけていきたい。

 

 夏が終わりました。少しひんやりとした朝の庭、一瞬の生を生ききった蝉の死骸を箒で掃きながら、秋を迎えます。

 

 

 

 

初版『トム・ソーヤーの冒険』の挿絵で描かれたトム

初版『ハックリベリー・フィンの冒険』の挿絵で描かれたハック

Tar:詩と児童文学愛好家。1973年生まれ。山羊座。

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