かなりや

 

 

昨年の暮れにこちらに文を寄せてから早くも4ヶ月が経ってしまいました。冬から春へ、季節が明るみの方へうつろうなかで、子どもたちは希望や不安を抱きながら新しい学校に入学したり、進級して新しい先生や友だちと出会ったりと大忙しです。そして多くの子どもたちはあっという間に新生活に慣れて、ついこの間まで一緒に教室で学んだ友だちよりも、新しい友だちと遊ぶことに夢中になります。子どもたちは背が伸びる度に、新しい世界を見つけてゆくものです。そして過去のことは「思い出」の箱のなかにきれいに揃えておくことを学んでゆきます。

でも子どもたちのなかには、この「思い出」に浸りすぎる子がときどきいます。新しい世界に羽ばたくよりも、過去の淡い記憶を辿りながら夢想にふけってしまう。大人たちはそんな子を内に閉じこもってばかりの成長の遅い子どもだと、無理やり外界に触れさせようとしますが、わたしはそんな子こそ芸術的天分が備わっているように思えます。静かに見守りながら、良質な芸術作品を与えれば、きっと他の子には見出せない新しい世界を見出すにちがいない。

思えば世にある多くの詩歌は詩人のその「思い出」から生まれています。立ち去った故郷への思いや、子どものころにみた母の面影、さらには自分が生まれるずっと以前の、古代や中世に生きた祖先たちのイメージ。誰もが知っている三木露風の童謡「赤とんぼ」はその典型的な作品と言えます。なぜ詩歌はそのように過去から、あるいは過去へと発せられるのでしょうか。そして、これは日本の詩歌だけのことでしょうか。

前回、わたしは金子みすゞとクリスティーナ・ロセッティの童謡詩に触れながら、日本の童謡と西欧のそれのちがいが個人主義の有無だと書きました。日本の童謡は親と子がとても近くに結びついていて独立していない。その理由は、詩人の「思い出」の箱のなかにいつまでも消えない童心がいつづけて、あたかも子どもに戻ったように詩人が歌うからだと思います。だから日本の童謡は親子が一心同体です。

もちろん日本と西欧というざっくりとした区分だけでは断定できませんが、ひとつそのよい例として、クリスティーナの原詩と日本語訳を比べてみたく思います。また『Sing Song A Nursery-Rhyme Book』からの短い詩です。

 

Motherless baby and babyless mother,

Bring them together to love one another.

 

 

 

これを西條八十(1892ー1970)はこう訳しています。

 

 母と子

 

母さんの無い子と

子の無い母さん、

ひとつに寄せて

仲良くさせたい

 

この八十訳が良いか悪いかは読者によると思いますが、わたしはこの原詩と訳詩の間にいま述べた日本と西洋の親子関係の違いをみて面白く思います。

クリスティーナの原詩には、19世紀イギリスの「母と子」を取り巻く厳しい社会状況への詩人の痛切な思いが、暗いトーンでひしひしと伝わってきます。挿絵を見るとそれがよくわかります。孤児を抱えた女性が、子のない母親に赤ん坊を渡す場面ですが、ここは明らかにお墓です。このお墓の下には母親の子が眠っているのでしょう。お墓は教会にあります。教会は当時の孤児たちを救済していましたから、子を失って悲嘆に暮れる母親にひとりの孤児が引き取られます。

クリスティーナのこのわずか二行の詩には、そうした現実を精確に描くリアリズムと、クリスチャニティの精神双方が背後にあります。だから2行目のBring them together to love one another.は、八十訳のような「仲良くさせたい」という願望表現よりも、「……しなさい」という、イエスが神に代わって人々に愛を説く命令形を踏まえた、詩人の祈りの表現とわたしには感じられます。なのでわたしが訳すなら、また拙い訳になりますが、こうなります。

 

 母を失った子と、子を失った母

 どうかふたりが結びついて、愛し合えますように

 

では八十の翻訳が駄目なのかといえばまったく違います。これだけ短い詩の翻訳こそ、八十の訳業の真骨頂がでます。

八十は戦後に「東京行進曲」や「青い山脈」などの歌謡曲の作詞家として活躍しますが、実は戦前は詩人として活躍しつつ、西洋の詩の翻訳者として大きな業績を残しました。特にこのクリスティーナほか多くの英米仏独の童謡詩の翻訳を手がけ、明治期に国家が子供の情操教育のために教科書に採用した押し付けの「唱歌」や江戸時代からつづく「わらべうた」の延長でもない、童心による純粋な芸術ジャンルを確立させようという童謡運動を大正期にもたらしました。あの北原白秋もその童謡運動の先頭に八十とともに立っていますし、鈴木三重吉が作った雑誌「赤い鳥」がその中心であったのはよく知られています。そして優れた詩人たちが大正期に一気に童謡を作りました。

よって上の詩の訳には、そうした童謡ムーブメントの牽引者であった八十の卓越した翻訳技術と詩人としての感性が同時に含まれています。詩の翻訳は単に正確な原文理解によってテクニカルに翻訳するだけでは中途半端です。翻訳者の母国語がもつ文化的所産、時代背景にぴったりと照合し、その国の読者が頭ではなく心で感じる「詩」でなければならない。当時も、そして今も日本におけるキリスト教の浸透度合いは低いです。もっと広く日本の大衆に、特に子どもにクリスティーナの詩を広めるには、クリスチャニティの精神を無理に出す必要はないのです。

クリスティーナの翻訳は明治期から蒲原有明や上田敏、中村千代等によってなされていますが、八十の日本人に親しみやすく変換された訳によって多く広まり、ロセッティ・ブームがもたらされました。よって「母と子」の八十訳はわたしの試訳よりも数段優れています。

そして、この童謡の翻訳の才能は、自作の童謡でも発揮されます。

 

 かなりや

 

唄を忘れた金糸雀は、後の山に棄てましょか

いえ、いえ、それはなりませぬ

 

唄を忘れた金糸雀は、背戸の小藪に埋けましょか

いえ、いえ、それはなりませぬ

 

唄を忘れた金糸雀は、柳の鞭でぶちましょか

いえ、いえ、それはかわいそう

 

 唄を忘れた金糸雀は

 象牙の船に、銀の櫂

 月夜の海に浮かべれば

 忘れた唄をおもいだす

 

 

 

 

大正7年に「赤い鳥」に発表されたこの有名な童謡は、はじめから成田為三の曲がつけられレコードになって広まりました。いまでも歌われていますが、実はこの詩が生まれた背景は、八十自身が述べていますが、着想は子どものころにクリスマスの教会でみた天井の電灯だったそうです。自分の真上にある電灯だけが切れていた。そのとき八十少年は自分が教会にいる皆から孤立していると感じたのかもしれません。この八十少年の孤独な子供心の「思い出」を、多くの人に伝わるように「電灯」を「かなりや」へと変換し、イメージを膨らませました。

この童謡の解釈は人それぞれでよいと思います。「柳の鞭でぶちましょか」といった残酷な動的表現と、最後の「象牙の船に、銀の櫂/月夜の海……」のメルヘンの静的表現の対比が内容の解釈を超えて聞く者に新鮮なショックを与えつづけます。

きっと八十少年は内的世界に閉じこもりがちな、「思い出」に浸ってばかりいる子どもだったのでしょう。いつまでも大人になりきれない童心が、これを歌わせたのだと思います。

この歌から、日本の童謡の多くが「思い出」から汲まれてくる理由がわかってきます。明治、大正、そして昭和へと急速に近代化し、子どもがすぐにでも国に役立つ人間になるよう教化されていくなか、成長のスピードから取り残された童心は行き場を失い、いつまでもこころのなかの月夜の海に漂うしかないのです。

これは戦後の日本人の詩心にもかかわると思いますが、今回はこの辺で筆をおき、新緑茂る近所の森を犬と散歩しながら、わたしのなかの育ちきらない童心としばし遊んでこようと思います。

 

 

 

 

うた

かなりや

かなりや

かなりや

かなりや

うしろ

せど

こやぶ

やなぎ

むち

ぞうげ

かい

つきよ

かあ

かあ

Tar:詩と児童文学愛好家。1973年生まれ。山羊座。

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