第2回「ジミー・ペイジと種田山頭火・ビート編」

今回もひきつづきジミー・ペイジと種田山頭火を比較してみたいと思います。

この似ても似つかぬ二人の巨匠の類似点や相違点を論じながら、私は、そして人々は、なぜこの二人に魅かれているのかを解き明かしていきたいと思います。

 

うしろすがたのしぐれてゆくか

 

雨ふるふるさとははだしであるく

 

ついてくる犬よお前も宿無しか

 

風の中おのれを責めつつ歩く

 

生死の中の雪ふりしきる

 

また見ることもない山が遠ざかる

 

ちんぽこもおそそも湧いてあふれる湯

 

山頭火の俳句を思いつくまま並べてみました。山頭火の俳句は自由律俳句と呼ばれ、季語や字数を問わない革新的な俳句として登場しましたが、今回私が注目したのはリズム感、あるいはビート感覚とでもいうものです。字数の制約がないとはいえ、詠めば固有のリズム感を感じることはできます。それは私には心地よく響いてきます。これに対して、本来の俳句の字数は五七五であり、これを詠むならば、いわゆる「間」、音楽的に説明するところの休符が入ることが常道であり、そうすることにより、八八八という、音楽的に説明するところの四拍子、あるいは4beat、8beatに相当する円滑なリズム感が底にあることはあきらかですが、山頭火の俳句、自由律俳句にはそのような円滑なビートはなく、無骨な変拍子が無軌道に続いていく感覚が感じとれます。ここに山頭火の俳句の魅力が隠されているのではないかと私は確信しています。定型句にももちろん素晴らしい句はあり、それを否定するつもりはありませんが、山頭火の俳句の変拍子性とでも呼んだらいいのか、まるでゴツゴツとした岩石を抱きしめるような感覚は定型句にない、一つのある救済を詠む人びとにもたらしているに違いないと思われます。山頭火自身が定型句では救われないと感じることは彼が捨てられなかった反社会性とも結びつき、その生活や作品との一体的な芸術にまで高められたのではないでしょうか。定型句がもつ秩序のなかでは到底実現できない山頭火の芸術に私は非常に感銘を受けました。

 

ジミー・ペイジのリズム感にも山頭火のような独特な変拍子感があり、これは1970年頃のイギリスにおける音楽シーンを考えれば、必然的とも言えるものでした。私は当時のイギリスにはブラックミュージックに対する強い劣等感があったと推察しています。イギリスのロックグループ(例えばローリングストーンズ、ヤードバーズ、クリーム)はブルースを好んでカバーしていましたが、ブルースはもともとアメリカの音楽であり、自国の音楽ではありません。ブルースやロックは他国の文化であるという認識は根強いものがあったと思われます。だからこそアメリカからやってきた後発のジミ・ヘンドリックスをイギリスのミュージシャン達は敬意を持って迎えました。イギリス人達は、ブラックミュージックをルーツとした音楽に関してはアメリカ人に対して全く降参しており、その閉塞感を打開すべく登場したのがジミー・ペイジ率いるレッドツェッペリンでありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ジミー・ペイジは「ブラックドッグ」の中にアメリカ音楽が実現しなかった変拍子をふんだんに盛り込みました。自国の文化として、ブルースをルーツにすえたロックミュージックを展開できるアメリカ人のようにではなく、あくまでイギリス的な背景のもと、全く新しい音楽を創造しました。そこに直感的な変拍子に対する感覚が強くはたらいていることは間違いないと思われ、これは山頭火が詠み捨てた自由律俳句に通じるものがあるのではないでしょうか。ここでは論理的なアプローチではなく、直感的な変拍子であったことが重要でしょう。私がジミー・ペイジと山頭火に魅かれるのも、そのあたりに原因の一つがあると分析しています。

 

 

 

 

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稲垣慎也(いながきしんや)1975年生まれ。シンガーソングライター。’94年頃より都内のライブハウスを中心に活動。最近は並行して中村剛彦氏のポエトリーリーディングにエレキギターで参加している。趣味は川崎長太郎や鴨長明、種田山頭火といった気になる文士を研究すること。

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