2 小林秀雄の批評論

 

主従関係 小林秀雄の批評論は、批評を開始して間もない段階からいろいろな機会を捉えて語られる。彼の苦悩を象徴する言葉を一つ探すとするなら、痛々しい「批評家失格」もあるが、内容を深く衝いている点では「主従関係」である。小林秀雄をその精神の中核において捕縛(呪縛)している批評概念の主語となる一語である。作家と批評家は、主従関係にあると内部規定しているのである。次のくだりは、この「批評原理」を具体的に叙述したものである。いくつか説明が必要であるが、まず引用からはじめる。傍線は筆者によるものである(以下巻末に至るまで同じ)。出典とするのは、新潮社一九六七・六八年版全集である。

 

人の心は問題の解決をいつも追つてゐるものかも知れないが、矛盾の解決によつて問題を解決しようとは必ずしも希つてはゐない。生活意欲といふものは寧ろ問題を矛盾したまゝ會得しようと希つてゐるし、事實それを日々實行してゐる。この根強い希いが藝術を生み、これを諒解する。自然が問題を矛盾したまゝ解決してみせている樣に、藝術は問題を矛盾したまゝ生かしてゐる。ジイドの解決という意味は、結局かういふ處に落着くのであるが、批評家はこの「充分な解決」を前にして、新たに問題を假定し、これを別樣に解決する。こゝに作家と批評家との間の尋常な正當な主従関係があると私は信じてゐる。批評は作品を追ひこす事は出來ない、追ひ越してはならぬ。これを一つの批評態度としてひとへに退嬰的だとか人間進歩の敵だとかと考へるのは、未だ考へが足りないのである。態度ではない、さういふ極く自然な矛盾が在るのだ、矛盾した事情があるのだ。そして矛盾といふものはこつちの心構へ一つで目障りになつたりならなかつたりするものである。(「批評について」全集第三巻、四〇~四一頁)

 

保留した事前説明とは、この自分に対する言い聞かせのような一節に誘導するための、先行的に立てられた二つの問題である。一つは理論。理論の限界性にかかる点である。理論とは批評のことである。その時代、同じ批評でも抽象的な議論に拠りがちの既定の批評法が目につくからであった。時代の嵐ともいうべきプロレタリア文学運動とその理論である。小林は理論を容れない。叙述法としても容れない。所詮理論には限界が伴う。批評は、理論の限界を容れて、限界を逆説的に生かす叙述法にこそ道が開けるとする。こここには抽象的議論や議論のための議論をよしとしない一貫した姿勢が横たわっている。また論じられたものが理論(文学理論)を得ていたとしても、肝心の作品(制作)から離れてしまっていること、それにもかかわらず理論を作品の上位に置く、小林秀雄からすれば主客転倒の批評態度への不満もあった。

もう一点は、ジイドの一言。「實際の處を言へば、藝術の領域には、作品がとりもなほさず問題の充分な解決でない樣な問題は無いのだ」(『背徳者』序文)である。作品(藝術)の全き性に言及した、他にはなにも要らないとする格言的なセンテンスである。主従関係とか、作品を超えてはならない(越えられない)とかは(傍線部)、全き性が先行し、先行していることを受け入れ、受け入れを前提とした批評態度から発せられる、一種の自戒である。ジイドの「充分な解決」を「別様に解決する」のも、全き性に対する矛盾ではなく、作品の全き性を解決するの謂いである。あるいは「充分な解決」を解決するの謂いである。主従関係は貫徹されるのである。

壱 はじめ(いちはじめ)1950年生まれ。詩論集「北に在る詩人達」、音楽論「バッハの音を「知る」ために」など。ブログ:http://ichihajime2012.blogspot.jp/  ツイッター:https://twitter.com/hawatana1

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