主格の問題 いずれにしても、一般論としての批評行為は、大岡信が言うようには受動性として「私自身をたえず選びとっている」というよりは、本来の属性に応じて能動性としての「私自身」が先に立ちがちである。「選びとっている」のも、むしろ私自身に沿った相手となる。それを再び自分を選び取る方向(受動性)に仕向けるにはどうすればよいのか。

主格の問題である。受動性であるかぎり主格の側には立つべきではないからである。極論すれば、批評は主格を得てはならないのである。ただでさえ論述的になりがちだからである。論述は能動性に身を置くものであり、主格に開始される叙述法である。選者で言えば、あり方としては文学賞の選者である。それも新人賞の。極論かもしれない。そうかもしれないが、批評一般に通低する問題である。主格は彼を離れないのである。むしろ押し留まるのである。

なぜ大岡信には、逆行が可能であったのか、天才的に高い個人的資質によるものか、個人の資質だけでは説明できないものがある。個人に帰属する一義的な立場の違いであるとすれば、大岡信が、書き手(詩人)の側に立つからであり、しかも外見的には能動性の側にあるように見えて実は受動性に立つ者の立場を強く自覚したからである。それは主格とならない能記者の謂いのなかに自分を再措定したことでもあった。そのときそれ以前に定立していた書き手としての自身は、再措定の支えであり再生し続ける上での原資であった。常に試され続け、しかも創り上げた後も自身に向けて送り続けるさらなる自己認否。すなわち選びとることの再試行。その日々のなかで繰り返される、受け身のままはじまり受け身で終わる、ついに自分に主格を立てない読み方と、読んだことを書く書き方の在り方。

 

「定見」 やはり立ち位置の違いを再認識すべきなのか。一巡して同じ地点に戻るしかないのか。それとも新しい地平に立てているのか。議論はすでに一歩先に出てしまっている。辿り着いたのは、新たな二項関係のように思われる。そうだとするなら、「二項関係」とは、すくなくとも小林秀雄の「主従関係」とは、立ち位置を含め異なるものである。ともに「受動者」だからである。いまはここに結語を見出し、ひとまずの「定見」=「受動者」とする。

 

 

引用・参考文献

江藤 淳『小林秀雄』江藤淳著作集3、講談社、一九六七年

大岡 信 「詩・言葉・人間」(同著『詩・ことば・人間』講談社学術文庫

一九八五年〈初出一九六七~七〇年〉)

桶谷秀昭『批評の運命』河出書房新社、一九七四年

『北村透谷』ちくま学芸文庫、一九九四年(初出一九八一年)

小林秀雄「様々なる意匠」「批評家失格」「文學批評に就いて」(『小林秀

雄全集』第一巻、新潮社、一九六七年)

「初期作品」「創作」(『小林秀雄全集』第二巻、一九六八年

「批評について」「再び文芸時評について」(『小林秀雄全集』

  第三巻、一九六八年)

「ドフトエフスキイの生活」(『小林秀雄全集』第五巻、一九六

 七年)

「モオツァルト」(『小林秀雄全集』第八巻、一九六七年)

わたなべ壱「北村透谷~叙事詩の開始~」(筆者ブログ「インナーエッセ

              イ」二〇一二年一一月)

 

壱 はじめ(いちはじめ)1950年生まれ。詩論集「北に在る詩人達」、音楽論「バッハの音を「知る」ために」など。ブログ:http://ichihajime2012.blogspot.jp/  ツイッター:https://twitter.com/hawatana1

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